古代からあった、金属にまつわる公害

古代からあった、金属にまつわる公害 


川添 洋さんの記事より抜粋させて頂きます


http://www.bulkworld.co.jp/KINZOKU.pdf


科学の発達した現代の日本においても、足尾鉱山での渡良瀬川の流域田畑や山林での 銅の採取による深刻な汚染があったり、

水俣有機水銀摂取過多による水俣病の被害が人々を 苦しめた事が幾多起こりました。

そして、21 世紀に入った今も、亜硫酸ガスの放出が技術革新 によって克服されたり、

ダイオキシンを無害化出来る施設が出来たりしていると言っても、公害のすべてが克服され、無くなったとは言えません。

では、金属を生活に取り入れ始めた古代 においては、そうした公害とは無縁だったのでしょうか。

その事についての興味深い指摘として、

仏教の教えに護られ人々が平安に暮らすことを希求して作られたはずの

奈良の大仏の建立にあたって、深刻な公害が在ったとする次のようなもの があります。

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それは、大仏を金メッキするにあたり、

使用した水銀の量は 58,620 両だったと記録に有りますが、白須賀公平氏はそのホームページで、58,620 両を 2.5 トンではなく、約 50 トンと換算して、 (この“両”の単位が今の度量でどの位と見るかで、前提は大きく違ってきます)、

その使用した水銀量の多さから、奈良において水銀中毒という深刻な事態を招いたと推定しています。

奈良盆地紀伊半島の中央部にある、夏暑く、冬寒い典型的な内陸性気候が特徴だ。

このような場所で水銀を蒸発させる作業を行うとすれば冬しかない。

まんべんなく水銀を蒸発させるには大仏を外から熱してもだめで、中から熱さなければならないからだ。

冬になると、奈良盆地には冷たい北風が琵琶湖を渡って吹きつける。

北風は若草山に当たって東風に変り、蒸発した水銀を伴って平城京に流れ込む。

いや平城京だけでなく、広く奈良盆地の北部全体が水銀蒸気で汚染されただろう。』


使用された水銀量を 50 トンでは無く、冒頭の算定のように 2.5 トンとしても、その量は大量ですが、白須賀氏はこの汚染が都を奈良から京都の平安京に移した理由の一つになったとも書いています。そうです。金属の発見とその利用は、人類に多大な進歩と発展を促しましたが、 

その一方で、深刻な汚染や被害を引き起こしました。

しかし、こうした汚染や被害は、8 世紀の奈良時代の大仏建立の時代に始まるのでは無く、

鉄や銅を精錬し始めた古代から、既に不可避として始まっています。

例えば、谷川健一氏は、石塚尊俊氏の『鑪と鍛冶』を言及し、その中のたたら仕事に従事した棟梁である 村下 の語りを紹介しています。 

『村下は年中火の色を見ておりますから、だんだん目が悪くなっていきます。火を見るには

一目をつむって見なければなりません。両眼では見にくいものです。

右目が得意の人や左目が得意の人や、人によって違いますが、どのみち一目で見ますから、

その目がだんだん悪くなっ て、年をとって六十を過ぎる頃になると、

たいてい一目は上がってしまいます。

私なども一時は大分悪くなっておりましたが、中年から吹きませんでしたので、この頃は少しなおりました。』

このように、金属精錬に従事する人達に一眼を失する者がきわめて多かったので、

古代には目一つの神として“天一目神”として奉ると共に、それが“職業病”であった事を、

谷川氏は 『青銅の神の足跡』の中で指摘しています。


又、谷川氏は『出雲風土記』の記述の中の『今も産める婦は、彼の村の稲を食らはず、

若し食ふ者あらば、生まるる子已に云はざるなり。』を引用し、これが、水銀を採る過程でいわゆる 鉱毒が付近の田や河川に流れ、その水が流れ込んだ田で収穫された米を食べて口の聞けない赤子が生まれた事、そうした“公害”が出雲だけでなく他でも在った事を、明らかにしています。

冒頭写真に掲げた足見田(あしみた)神社がある三重県の水沢にも、同じ伝承が残っている事を 谷川氏は述べています。

すなわち、江戸時代の天保年間に記された地誌に足見田神社の神田を 耕す者の子供は必ず啞になると書かれているのです。

そして、吉田東伍氏の『地名辞書』に水 沢の中谷という所では、花崗岩中に黄鉄鉱が出て、それに交わって辰砂(水銀)が出た、『、、、辰 砂見出ず、土砂中に往々水銀の滴り居ることあり』(文中)と書いてある事を指摘して、その繋がりを重ね合わせて、

その伝承が単なる伝承で無く、そこにおいて実際に水銀の禍が在ったであ ろう事を検証しています。

さて、記紀は一般に神話を採録したものと云うイメージが強いように受け取られていますが、 “鉄”或いは“金属”というキー・ワードの視点で見ると、まさに記紀は、金属にまつわる記 事に彩られた読み物と云える紀伝です。


ほむつわけのみこと


例えば、日本書紀の垂仁記には、皇子の 誉津別 命 が 30 歳を過ぎても赤子のようにないてば

かりいて、物を言うことが無かったのに、ある時、冬 10 月に大空に“くぐい(白鳥)”が飛んで

いったのを見て、あれは何物かと言ったのを聞いて、垂仁天皇が喜んで誰かに“くぐい”を捕える事を命じると、天湯河板挙 が申し出て自分が捕えましょうと言い、

出雲国にまで行ってついに捕え、11 月にもち帰ります。それがもとで、皇子はものが言えるようになったので、天湯河板挙に鳥取姓を授け賞し、鳥取部・鳥飼部・誉津部 を定めた。と云う記事が載っています。


この天湯河板挙は、昔、茅渟 の 莵砥 と言った、和泉国日根郡鳥取郷に住んでいた鍛冶集団

(同時代に石上神宮に太刀一千刀を作っています)と関連した人とされていますが、

この話を谷 川氏は、『白鳥伝説』の中で次のように述べています。

『「古事記」によると、ホムチワケ(日本書紀ではホムツワケ)は火中で生まれた。つまり火

中出生の皇子であるがゆえにそうした名がついたのだという。

ホは火であり、ムチは貴あるいは持の意、ワケは別であろう。

つまりホムチワケは火の皇子である。この火の皇子をそだてるのに、大湯坐、若湯坐を定めたとある。赤んぼに湯を浴びせる婦人を湯坐というが、ここには タタラの火の中で融解した金属の湯の意味がかくされている。


生まれた皇子にむかって金属の ように強健な子どもになってほしいというという願望が秘められていると私は思う。人間の出産の場合でも、羊水のことを「湯」と呼んでいるのである。


つまり、ホムツワケの出生の物語は金属精錬の実態をそのままなぞっているのである。その物語はおそらく、ホムツ部の置かれた伊勢の佐那から起こったと私は考えている。

そこは古代 から近世にいたるまで日本の水銀製造の中心となってきたところで、水銀中毒による犠牲者が 少なくなかった。

ホムツワケが物を言わない原因は、水銀中毒で喉をおかされたことを暗示している。

また物言わぬ皇子が物をいうようになったのは、鍛冶氏族のもっとも崇拝する神が白鳥だったからにほかならない。』

このホムツワケの話は、古事記では、“くぐい”を捕まえて来ても治らないので、ホムツワケ が出雲に行って出雲大社に祈る事で治す話になりますが、この話について谷川氏は、『日本の地名』の中で次のように述べます。

『尾畑喜一郎は、「古代文学序説」の中で、水銀を取扱う者は、微量の蒸気をも吸入しないよ う注意する事が肝要とされている。

此の蒸気とは取りもなおさず、朱砂からの蒸気それ自体を 指すわけで、長時に亘って此れを吸入する時には不安幻覚に襲われ、果ては咽喉の粘膜が侵さ れて終にはまともな物云いが出来なくなるとさえ云われている。と述べている。

そして曙立王 の裔の伊勢佐那造が、呪神のさすらいの物語を伝承したとし、彼らが朱砂、水銀とは密接不離 の間柄にあったとみている。

こうしたことから伊勢品遅部はこの丹生鉱山の採掘と関連があっ たと推測される。

彼らはおそろしい水銀中毒になやまされたにちがいない。』と書いています。

こうした鉱毒や精錬の過程で出る被害に悩まされながらも、人々は金属を求めました。それは、 やはり、種々の金属が人々の生活を豊かにしたからです。


朱(水銀)は、“おしろい”として人に好まれ、薬となり重宝され、シラミ取りにもなり、又、 防腐材や塗料としても使われました。

金や銀は、主に宝飾品として愛用され、銅は大仏に使わ れたように、金銀より量が確保出来たので、耐蝕金属として建造物に使われました。

鉄は、包丁や鍬や鎌として、人々の生活の必需品になり、かんなや釘等多用されました。

このように、金属は人々の生活に有用なものでしたから、人々はそれを求め、従って、高く 売れました。そして、見方を変えれば、金属を握る者は、権力につながる者だったのです。

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747 年から 749 年までの 3 年間に 8 回の鋳造を行って仏像を完成し、本体の鋳造から塗金完了まで約 10 年、大仏殿の建設が約 4 年など、延べ 26 年という長い年月を費やし、寄進者 42 余万人、作業者延べ約 216 万人もの人が関わり、大仏は建立されました。





後記

写真は鎌倉の大仏で、当初は木や銅で作られたそうですが、 倒壊があり、1252 年に青銅で作り直されたと言われています。

鎌倉の大仏は中に入る事が出来ますので、そこで撮った内部写真です。

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この写真から、13世紀 の関東での鋳物の技術がどのようなものであったかが解ります。

これから想像す るに、大仏は瓦を 1 枚 1 枚重ねて屋根を作るように、1 段 1 段、下から上へ積み 重ねて作られると共に、各段も横に 1 枚 1 枚重ね合わせて鋳込まれて作られた ように思われのですが、、。

処で、鎌倉の大仏も奈良の大仏と同じように表面は金 で覆われていましたが、奈良の大仏が金メッキが施されたのに対し、鎌倉の大仏 は金箔を貼る手法で、今でも、顔にその一部が残っていとの事です。

とすれば、 奈良の大仏のように、金を水銀に融かして表面に塗ったうえで、大仏内部に火を焚いて水銀を蒸発させるという手法は取らなくてよかったのですから、その水銀 蒸気を吸って肺壊疽になる危険は避けられた事になります。