八坂神社の祭神、牛頭天王に隠された五道大神は中国の民間神ですか?

滋賀県塩津港にて発見された木簡に記された内容に基づく、山口建治先生の貴重な論文です、

ここに転載させて頂きます。

写真 焔摩天(えんまてん)Wikiより

 

― 塩津港遺跡起請文札に記された「五頭天王」―

【要旨】八坂神社や津島神社の祭神であった牛頭天王は、最初期には「五頭天王」とも称されていた。
筆者はこれまで、この「五頭天王」は中国民間の五道大神(五道神、五道将軍とも称される)が日本に伝来した後の別称ではないかと指摘してきた。
それはおもにゴトウ(五頭)、ゴズ(牛頭)と いうコトバの音声の類似性と神格の類似性に基づく仮説であった。
ところが最近、滋賀県琵琶湖北 岸の塩津港遺跡から発掘された大型木簡のうち、「五頭天王」と「五道大神」の両方がともに記されている一つの木簡があることに気づいた。  

五道大神は今日の日本ではほとんど顧みられることのない、かつて日本に伝来してきたことすら 忘れさられている中国の民間神である。

しかし日本の密教仏典に照らしてみると、11 ~ 13 世紀の ころにさかんに行われた焔魔天(密教では閻魔をこのように称す)の修法のなかで重要な役を演じ た神であり、それゆえとくに秘匿を要する神であったことがわかる。

10 世紀のころまで疫神とし て人々に崇められてきた「祇園の天神」が、本来どういう神であったかを明確に指摘した人はいないが、
五道大神は密教では天部の神、仏法の守護神であり、まさに「祇園の天神」と称されるにふさわしい。
11 世紀のころ、この五道大神と入れ替わるように牛頭天王が文献上にも顕在化してくる。 

密教僧は、祇園神 = 五道大神を秘匿する代償として、いわばその身代わりに、新たな祇園神 = 五頭天王(のちに牛頭天王)を創出する必要があった、と考えられるのである。  

小論は、塩津港遺跡起請文札のうちのある一つの木簡に、上界の神「五道大神」と王城鎮守の祇 園「五頭天王」の両方がそろって記されていることの意味を読み解き、
中国民間の五道大神が牛頭天王にすり替わる、その神格誕生の秘密の経緯をあらためて明らかにし、識者のご批評を仰ごうとするものである。

明治時代に神仏分離が断行されるまで、京都の八坂神社、名古屋の津島神社などは牛頭天王を祭神 として祭り、多くの人々の尊崇を受けていた。
あるデータによると、かつて牛頭天王を祭っていた両社系統の神社は、今なお全国で八坂神社は 4671 社、津島神社は 988 社あるという(神社本庁教学研究所の平成「祭」データに基づく「素戔嗚尊・八坂神社・津島神社等県別奉祀社数」は本社・境内社あわせて、13000 余社を数える)。

かつてこれほど多くの尊崇を受けていた牛頭天王であるが、一体もとはどのような神であったのか、どのようにして形成されたかは今に至るも謎に包まれている。  

 

 

神社史の西田長男は、「牛頭天王信仰の源流がインドにあったことは先ずは疑問を納れなかろうと思う。ただ、インドに発し、シナに入り、我が国に伝えられるに至って、さまざまの複雑な習合を遂げ、その末、ついに、信景の言葉を藉りれば、『混雑而習合互無知其本矣』といった有様になったのであろうと思う。
尤も、この小論では、かかるインド・シナにおける牛頭天王信仰の経緯に関しては述ぶべき限りではない。
また、わたしの如きその任ではない」と述べ、
インド・中国におけるこの神格誕生の経緯については言及を避けている。
また修験道研究の宮家準は、「......素盞嗚尊の他に、ヒ ンズー教に淵源があるとも思われる牛頭天王、仏教の薬師・観音・大日、道教の商貴王・(鍾馗)・天刑星、陰陽道方位神である天道神歳徳神八将神、朝鮮の民俗信仰の『ソシモリ』など、アジア世界の諸神格が、牛頭天王の信仰に包摂されている」と述べるが、やはりヒンズー教のどういう神に淵源があるかは明言していない。

現在では、牛頭天王信仰のメッカであったはずの八坂神社、津島神社ともに牛頭天王に替えてスサノオをおもな祭神としている。
八坂神社編の『八坂神社』では、「わが国の神話に語られるスサノヲのミコトと、牛頭天王武塔神、また天刑星とは、本来は同一神ではないが仏教思想や渡来系氏族の
信仰、とくに陰陽道とも混じりあって、神仏習合の形で、同一神とみなされ祇園信仰が広まったのである」という。

 牛頭天王の出自、つまり原像がどうであったか、それがどうしてスサノオと入れ替わったかは、いまや神仏習合の一言で片付けられている観がある。
しかしその習合がどのように進展したのかを考究しようとすれば、やはりこの神のもとの姿がいかなるものであり、それがどのように中国大陸から日本に伝わったのかという視角からの検討もなおざりにすべきではなかろう。

 筆者はこれまで、牛頭天王は最初期には「五頭天王」とも称されており、中国民間の五道大神あるいは五道神、五道将軍とも称される神が日本に伝来し変容したものではないかと指摘してきた。

それはおもに「武塔」、「五頭」、「牛頭」の漢字表記から推測しうるコトバ(音声言語)としての類似性(漢 字を中国語の原音で読むときの類似性)とそれぞれの神格の類似性に基づく仮説であった(民間信仰 の伝承伝播では、おもに口頭に頼るため、表記される文字よりも音声としてのコトバがより重要であ るとの考えに基づく )。

ところが最近、奈良文化財研究所の木簡データベース『木簡庫』で「五頭天王」 を検索するとヒットする木簡があることに気付いた。
2011 年に発掘され現在も整理が進められている、滋賀県琵琶湖北岸の塩津港遺跡から発掘された起請文札のなかに、「五頭天王」の神名が記されていたのである。
しかもそれだけでなくその木簡と同一の木簡に上界(天上界)の神の一つとして「五道大神」が記されており、「五頭天王」と「五道大神」とがなんと同じ資料の上で結びついていた。

 牛頭天王の出自に関する私見を要約すれば、牛頭天王の前身の「武塔神」は実は中国の民間神の「五道神」の漢字音に基づく日本語表記であり、「五道」(武塔)神から「五頭」天王が生まれ(実のとこ ろ五頭をゴトウと読んだかゴズと読んだか今となっては不明であるが五道ゴドウに近い音のゴトウと しておく)、そこからさらに「牛頭」天王へと表記が変更されて固定化したというものだった。
小論では、塩津港起請文札のうちの一つの木簡に、上界の神「五道大神」と王城鎮守の祇 園「五頭天王」の両方がそろって記されていることの意味を読み解くことにより、筆者がこれまで主 張してきた、牛頭天王は中国民間の五道大神が日本伝来後その名を変えることにより誕生したという、 この神格誕生の秘密をあらためて明らかにし、識者のご批評を仰ごうとするものである。

 

I 塩津港遺跡の起請文札

(1) 塩津港遺跡
 塩津港は琵琶湖の北端部に位置する、北陸と都を結ぶ交通の要衝として古代より栄えた港である。 発掘調査は塩津大川の河川改修に伴うもので、平成 18 年度から 21 年度にかけて行われた。
発掘調査 を担当した滋賀県教育委員会文化財保護課作成の現地説明会資料によると、平安時代後期から中世にかけての宗教施設と考えられる建物跡や多量の土師器や硯などが検出され、なかでも 2m を超える大 きな杉のヘギ板に起請文が記されている大量の木簡が出土した。

木簡に記される起請文の発見は国内初であり、しかも最古の起請文としてこれまでに知られていた東大寺文書のものよりさらに 11 年も 古い起請文であったので社会的にも注目された。
調査は建物群 ( 社殿中心域 ) およびその南側 35m に 東西に延びる堀を中心に行われたが、その堀の埋土のなかからも、土器・木器・木簡などが多く出土 した。社殿域の「建物の存続時期は出土遺物から最初は 8 世紀に建てられ、12 世紀に廃絶していたことがわかり」、「11 世紀から 12 世紀は土師器と炭など多くの遺物が建物群を中心に、約 20cmの厚さで層をなして堆積し」ており、「このころ最も活発に祭事活動していた様子」がうかがわれるという。

(2) 塩津港起請文札の注目点

濱修「塩津起請文札と勧請された神仏」によると、塩津港遺跡で発掘された木札は約 300 点出土し、その大半が起請文を記したもので(通常の木簡とは違い、サイズが 2m を超すものがあるからか、現地の人は起請文札と称している。

小論でもそれにならい起請文札と称する)、最も古い年紀は 52 号木 札の保延 3 年(1137)、最も新しい年紀は 27 号木札の建久 2 年(1191)である。

12 世紀の後半のも のが多く、この時期に起請文祭祀が最もさかんに行われたという。
これらの起請文木札については、 以下に触れるようにすでに日本史の専門家による研究があり、それらを参考にしつつ筆者なりの注目 点を述べてみたい。  
起請文とは「宣誓の内容は絶対に間違いない、もしそれが誤りであったら(すなわち宣誓が破られ
た場合には)、神仏などの呪術的な力によって自分は罰を受けるであろうという意味の文言を付記し
た宣誓書」であるが、
塩津港遺跡起請文札は、これまで知られていた起請文の体例とはすこし異なり、最初に呼び降ろされる神々を列挙する部分(「神文」)があり、そのあとに誓約内容(「確言」)とそれを破ったら神罰を受けるという「罰文」がくる、「勧請型起請文」である。

その勧請される神々の名称と構成が筆者にはことのほか興味深いのである。  
現在、奈良文化財研究所『木簡庫』に登録されている塩津港起請文札はすべて 25 点であり、出土 した木簡の大半はまだ公開されていない。

しかしその公開された起請文札だけからでも、登場する神々 の構成には注目すべき特徴がある。

以下、引用する釈文は『木簡研究』30 号、31 号、35 号に記載さ れたものである。  

まず第一に、神々が三層に区分されている。
木札の先端に「再拝々々」という句のあと、三~五行書きで本文が記されることが多いのだが、上界、王城、当国の三層に分けて神々を列挙した木札が多く見受けられる。
詳しくは後述するが、小論の素材である『木簡研究』第 30 号「滋賀・塩津港遺跡」 の資料番号(3)の平治元年六月十六日の木札を例に示す。

この木札は本来は縦書きであるが、ここ では横書きに直してある。またその写真も誌上に掲載されているのであるが、文字が判読不能のため ここでは割愛する。

維歳次己卯平治元年六月十六日戊辰吉日天□三川安行□□代大王敬白  

先大梵天王帝尺天衆    
再拝々々 五道大神日月五星廿八        
宿炎魔法王四大天王     
治天敬白        

殊別天王城鎮守八番       
大 北野祗園五頭天王      
稲荷三所加毛下上春      
□大明神八大明神

別当国鎮守山王七社竹生嶋弁才天女      
塩津五所大明神惣天日本国中一万三千七      
百□□大小之神祇□道□テ也      

右件□之□□三      
盗取テ其米ヲ取□ニ□ニモ□ヘシ□□      
上件□□□□□□□盗罰        
四千之毛□ニ罰蒙令給敬白
 
このように「神文」を三段(上界、王城、当国)に分かち書きしたのが、他にも 2 例(『木簡研究』 第 30 号の資料番号とある。  

第二には、上界の神々を「大梵天王、帝尺天衆、炎魔法王、五道大神」と列挙し、そのなかに五道 大神が含まれる。

五道神あるいはまた五道将軍とも称されるこの神は、中国の民間神であって、日本の文献資料のなかではめったに登場せず、これまでほとんど無視されてきた。

たとえば遠藤克己は「五道とは地獄、餓鬼、畜生、人、天の五道の冥官の通称であって一つの神を指すものではない」といい、 一つの個性ある神格とは認めていない。

小峰和明の『今昔物語』の注でも、五道大神の同体異称と考 えられる五道大臣について「地獄を除いた六道。大臣は閻魔王の下臣。冥官」とするだけで、やはり一つの神格とは認めていない。

管見の範囲では、これまで日本で五道大神を論じたのは、小田義久、荒川正晴、出雲路修と筆者ぐらいではなかろうか(日本の華北占領期の河北民俗調査に基づく永尾龍造『支那民俗誌』第二巻に五道神の項があるが)。

日本の文献上でほとんど取り上げられることのなかっ た五道大神が、12 世紀後半のこの木札にたしかに記載されており、後述するように院政期の焔魔天 曼荼羅図には唐服を着た五道大神が描かれていたのである。
下は京都国立博物館蔵の焔魔天曼荼羅(図1)と『覚禅鈔』所載の焔魔天曼荼羅(図 2)である。

 

 

 

中国では通常武人と考えられている五道大神がこれらの図では、文人の装いになっているのは日本における変容である。

 第三には、王城鎮守の神に「祗園五頭天王」とあるのもきわめて興味深い。
祗園が今日の八坂神社 を指していることは明らかであり、拙著で「見え隠れする五頭天王」と述べた、この「五頭天王」が のちの「牛頭天王」になっていく前の表記にほかならないことがこれでほぼ確定される。

それではこの「五頭天王」とはそもそも何であったのか、また牛頭天王の前身あるいは同体異称とされる武塔神 とはどういう関係になるのかが問題になろう。
これが小論のメインテーマである。  

第四には、当国当所の「五所大明神」と記される木札が 11 点あり、五所□□□だけでも 4 点ある。
『木簡庫』で確認したところ、「五所大明神」という神名は塩津のこの起請文札だけに見いだせる、き わめて特徴的な神名である。

塩津港遺跡の神社跡と推定されている場所の北側から五つの神像が発掘 されており、この五所大明神がこの五つの神像と関係があるかどうかも気になるところである。

濱修の発掘報告書では、もっぱら現存する「香取五神社」と五所大明神との関係に触れるのみだが、この香取五神社は明治 2 年に現在の社名に改称されるまでは「香取五所明神」と称されていたから、塩津 港遺跡の神社跡から発掘された五つの神像は香取五所明神そのもの、つまり遺跡の起請文札にいう「塩津五所大明神」だった可能性がある。
五所は五柱の神体の意であろうから、五霊(ゴリャウ)と同義であり、民間の御霊(ゴリャウ)信仰では五霊・五郎などさまざまな呼称でその神格が呼ばれており、
この五所大明神もその一つであり、いわゆる民間のゴリャウ(御霊・五霊)信仰と関係するかもしれない。  
以上筆者が塩津港遺跡の木札で注目した点を述べたが、要するにこれらの起請文札は、後に牛頭天 王という神格を誕生させた背景や経緯を如実に示していると考えられるのである。
以下、五道大神が どのように日本に伝わり、その後表面上は姿を消し、入れ替わるように牛頭天王という新しい神格が 登場したか、その概略を述べてみたい。

II 五道大神の受容

(1) 起請文のなかの五道大神

 先述したようにこれまで日本では五道大神はほとんど話題にのぼることのなかった異国の神である。
ところが塩津港遺跡木札の多くの起請文には多少の出入りはあるものの、上界の神の一員として 「大梵天王・帝尺(釈)天衆・五道大神・日月五星廿八宿・炎魔法王・四大天王」の形で登場する。 
ほかの木札もほぼ同様であり、『木簡研究』30 号の資料番号(15)がやや異なり、「梵天・帝釈・四大天王・□魔法王・冥道冥界・泰山府君・司命司禄」と、五道大神に替って泰山府君と司命司禄が登場している。

また『木簡研究』31 号の資料番号(9)は、「大凡天王始上界天人三界九居天王天衆・ 下界冥□(道カ)炎魔法王」となってやや簡略化している。
これらはみないわゆる天部の神々であり 仏法の守護神であった。  
塩津港遺跡の木札がいかにユニークであったかは、ほかの起請文の神文と比べればすぐわかる。

竹居明男「起請文等神文・罰文集成ならびに索引」(稿)は、門外漢にも一目瞭然のまことに便利なものである。
この起請文神文集成は貞永元年(1232)までの起請文のいわゆる神文・罰文の部分を集め たものだが、資料総数 110 のうち、「五道大神」という正しい呼称は一つも出てこない。

これと似た表記でおそらく同一神格を指すと思われる資料番号 26 の「五道天神」が一つ、資料番号 59 の「五道将軍」が一つ、それからもっと漠然として同一神を指しているかどうかも怪しい同 92「五道冥道」、 同 30「五道冥宮天王天衆」がそれぞれ一つずつある。
ここでその代表例として資料番号 26 を示すと 以下のとおりである。

 永暦 2 年(1161)8 月 13 日付・沙門覚西起請文(石山寺所蔵聖教目録裏文書、平安遺文 3160 号)  敬驚三世諸仏半満聖教十方大士縁覚声聞梵天帝釈四大天王北斗七星諸曜宿等 魔法王太仙府君五道天神司命司禄王城鎮守諸大明神(以下略)
 
帝釈天以下の神々の配置は、塩津港遺跡の木札と酷似しているが、太山となるところが「太仙」と なっていたり、五道大神となるところが五道天神となるなど、あまり正確な表記になっていない。  

ところが塩津港遺跡の木札では、これまで公表されたもののうち少なくとも 5 例の五道大神が登場 する。
「五道大神」と明瞭に記されたもの 2 例、繰り返し出る神々の組み合わせから五道大神と書か れていたと推測できる 3 例を合わせての 5 例である。具体的にいうと、先に挙げた資料番号(3)の もの以外にも、『木簡研究』30 号の資料番号(1)に

「大梵天王帝尺天衆炎魔法王五道大神」とあり、

同号資料番号(6)に

「大梵天王帝尺天衆□□大神日月五星廿八宿焔魔法王四大天王」、同号資料番号
(13)に、「大梵天王帝□□天□五道大□四大天王」、

『木簡研究』31 号資料番号(3)に「大梵天帝尺 天衆五道大□日□五□□□□炎□法王四大天王」とある。
このように塩津港遺跡の木札には、五道大神が頻出し、しかも時には焔魔法王より前に書かれる場合があり、当時における五道大神の勢威がしのばれるのである。

 それでは何ゆえに五道大神は 12 世紀のこの時期このように健在であったのであろうか。

五道大神はたしかに道教の神といってもよいのだが、同時に『増壱阿含経』にも登場し、釈迦の布教を助けるエピソードを有するれっきとした天部の神であった。

台湾の鄭阿財は仏教以前のインドの土着神に由来するかともいっている。

祇園社は当初「祇園天神堂」と称されていたが、五道大神はまさしく「祇園の天神」という呼称にふさわしい神であった。

そこでまず、日本の仏典のなかで五道大神はどう扱われていたかを確認しておきたい。

(2) 仏典のなかの五道大神

 東京大学大正新脩大蔵経』のデータベースで「五道大神」を検索すると、以下のとおり検出できる。書名、撰者、成立時期、「五道大神」用例箇所のみを記す(ただし同一資料中重出しても代表的な 1 例のみ記載)。

この表だけからでもきわめて注目される事実が看取できる。  

(イ)五道大神は焔魔天の眷属として、その修法(焔魔天法)に関する箇所に出てくる。  

(ロ)日本の仏書に五道大神が出てくるのは 9 世紀から 14 世紀のあいだに限られる。
とくに 12 世 紀の院政時代の密教系仏書に集中している。  

(ハ)五道大神の受容について、台密東密では時間のズレがある。台密が比較的早い段階(9 世 紀末)に受け入れ、しかも比較的に早い段階で言及しなくなるのに対して、東密台密よりかなり遅 れて(12 世紀初め)受容し、そしてかなり遅く(14 世紀の杲宝の時代)に至るまで言及が続いている。 

五道大神は密教の焔魔天法に関わる神として、日本に伝わったことはこの一覧表から明らかである。 
またそれを主導したのは天台密教徒であったらしいことも推測できる。
それでは、焔魔天法において 五道大神はいかなる役割を担うのか、部外者でも知りうる範囲で概観しておこう。

 

焔摩天(えんまてん)Wikiより

 

(3) 五道大神と焔魔天法

 五道大神は時に五道神、五道将軍(王)とも称された。唐の阿謨伽三藏(不空)撰『焔羅王供行法 (18)
次第』では、焔魔天の眷属神として、五道将軍王が登場する。   
本宮在鐵圍山之北地中。是即冥道宮也。 五萬眷屬而爲圍繞、宮中庭有檀拏幢。其頭有一少忿怒
之面、王常見其面知人間罪輕重善惡。人間有作重罪之者、從其口出火光、光中黒繩涌出警覺、見木 札知其姓名料記之。又有作善之者、白蓮花從口開敷、其香普薫大山府君五道將軍王、常奉王教能定 善惡。......是法疫病氣病一切病惱時、宜修兼能修之、正報盡付死籍、能乞王削死籍付生籍。

『望月仏教大辞典』の「焔魔天」の項にこの部分を訳したものがあるので、それを引用する。
ただ
し......以後は拙訳である。
「本宮は鉄囲山の北の地中に在り、是れ即ち冥道宮なり。五万の眷属に囲 繞せらる。宮の中庭に檀拏幢あり、其の頭に一少忿怒の面あり。
王は常に其の面を見て人間の罪の軽 重善悪を知る。人間に重罪を作す者あれば其の口より火光を出し、光中より黒縄涌出して警覚す。
木 札を見てその姓名を知り、之を料記す。
又善を作す者あれば、白蓮花は口より開敷し、その香善く薫 ず。太山府君、五道将軍王は、常に王の教えを奉じて能く善悪を定む。
......この法は疫病気病すべて の病悩のとき、よろしく修し能く修すべし。さすれば正報(心身)が尽き死籍に付きそうになっても、 この王に頼んで死籍からその名を消して生籍に付け替えて貰える」。  

焔魔天の修法は疫病などの病悩の時に修すべきものである。
焔魔天の宮中にある檀拏幢は人頭幢と も呼ばれ、その口から火光が出たり白蓮花が開いたりするのを見て、焔魔天が悪人か善人かの裁定を下す。
大山府君や五道将軍は焔魔天の裁定結果を奉じて人の善悪を最終的に決める、つまり病死させ るなどの刑を執行する。
図 1 図 2 の焔魔天曼陀羅で中央の焔魔天が左手に持つのが檀拏幢であり、この修法の重要な法具である。
焔魔天の裁定を受けてではあるが五道大神が人の生死を最終決定するゆえ、この世に生きてい人々からすれば、五道大神はさしずめ焔魔天の代理執行人のように思われた に違いない。  
錦織亮介『天部の仏像事典』の「焔魔天」の項によると、『供養十二天大威徳天報恩品』に「焔摩 天喜ぶ時は、人横死なく疫気発せず、この天瞋る時は、人非時に死し、疫気充満す」とあり、焔魔天 を本尊として祈る焔魔天供の修法は平安時代の末期ごろから始められたという。
それに伴い眷属であ る五道大神の活躍の場も広がった。
『春記』永承 7 年(1052)5 月 28 日条に、西京の住人の夢に現れ、吾は唐朝の神である、吾を祭り住む所を作れば病患を留めておこうといい、社を提供させた「唐朝の神」とは五道大神であったに違いない。  
台密法曼流の祖である相実の高弟・静然が師との面授口訣を筆録した『行林抄』の行林第 62 に焔魔天法の行法が記されている。
その詳細について述べる知識を持たないが、ここに記される焔魔天法 は不空の『焔羅王供行法次第』を引き継ぎ、それをさらに具体化したもののようである。
この行法で も、五道大神の同体異称である五道将軍王が重要な役を演ずる。
下の引用部分では焔魔天は上帝と言い換えられているが、その配下の神として五道将軍王は、太山府君ともども、焔魔天の裁定結果に基 づき、この世の人々の善悪を最終決定する重役を担っている。
『焔羅王供行法次第』とほぼ同文であるが、以下に引用しておく。   
上帝見面、知人間輕重善惡。人間有作重罪之者、從其口火光、光中黒繩涌出警覺、見木札知其姓
名、断記之。又有作善根之者、白蓮花從口開敷、其香普薫。太山府君五道將軍王、常至(奉か)主教、能定善惡。  
こうした重要な役割を担う五道大神はとりわけ秘匿すべき神であった。
『行林抄』の裏書に以下の ようなことが記されている。
  焔魔天秘法出自秘大要集。或云、日延持来新度文之内也。......五道大神印......、是秘中秘印也。 (23)
空基誠云、是名最極秘密、不輒開披之。   (焔魔天秘法は『秘大要集』に出る。あるいは日延将来の新舶来書のうちにあるという。
五道大
神の印......これ秘中の秘印なり。空基誠はこの名最極の秘密、たやすく開くなかれという。)  『秘大要集』は『大正新脩大蔵経』にも収められておらず、いかなる書か不明である。日延は 953 年に呉越国に行き、1000 巻あまりの仏典を持ち帰ったといわれる天台僧であるが、その舶来書の内
(24) 容は不明であり、焔魔天法の新しい儀軌書が含まれていたかどうかは分からない。

後述するように、五道大神が重責を担うようになったのは、いわゆる地獄十王信仰と習合し、第十殿の五道転輪王とし て仏教にとりこまれたのと関係するのであろう。
密教僧によりそののち五道大神は極秘扱いにされるようになり、密教徒以外では次第に存在すら知られなくなったと思しい。  
また同じ裏書に、藤原某がこの修法を行った際の祭文らしき文が記されている。 
  維、貞元二年(977)南瞻部州大日本國勘解由次官從五位下藤原某、潔齋沐浴、三業清淨謹啓。 請迎降臨天等冥道、某若冠成業、才 未深。向以不次用得恭勘判官、雖云誠是天道所令然、人間 嫉妬鬼道之嫌、情不可懼、戰戰兢兢間。近曾慮外有所示物怪、爰就陰陽家、且令占卜、且又 愼 之處。夢中有告誨、問云。冥宜奉仕百日天供祈祷、爾者時免其災害。覺後退而尋問事情於僧家。
僧家教至圖閻摩羅王萬荼羅、排比十九前之供具供養尤可吉。仍今隨其開導、抽赤心之誠、盡丹誠之算。圖繪此萬荼羅、燒香散花并備五穀甘美之褒粥相。  
勘解由次官の藤原某がいかなる人物か不明だが、官職を得ても嫉妬などにより不吉なことが起こら ないかと小心翼々として、神仏に頼んで身の安全を図ろうとする、当時の官人たちの精神生活ぶりが 目に浮かぶ。
文中「排比十九前之供」とあるように、焔魔天十九位曼荼羅を掲げて行う焔魔天供養が このような際にも行われたのである。
 また、『史料纂集・古文書編』36 所載「福智院家文書」に、「興福寺別当尋範焔魔天供祭文」が収

  維仁安二年(1167)正月十日、日本国興福寺長吏権僧正法印大和尚位......凡焔魔大王削死札著生 札、而自在轉夭厄成榮祿又无㝵、故稱焔魔羅王。夫列山海珍膳之者、堅保松栢之齢、致心身歸依之 人、必感福祐之首。況尋本地是悲願金剛所變、或離愛薩埵變化云々。故内以慈悲爲心、外以正道治 之、所宣之教令、不異遜婆明王、所行之刑罰、相似羅誐佛母。加之、除病安身之力、猶勝雪山妙藥、 摧破怨魔之用、亦越海底金剛、若爾誰以不蒙慰利益哉。依之備五穀美味、捧六種供器、召請平等大
  王、仰願焔魔大天、鑑无二懇志、照三葉丹誠、速引率太山府軍・五道大神・妃后・七母・司命・司 (26)
祿・暗夜吒枳、殊先師兩所聖靈、惣冥官冥道之類、降臨壇場......。
 この一文でも焔魔天の威力が強調され、「除病安身之力」「摧破怨魔之用」が特筆されていることが 注目される。
京都国立博物館園城寺に伝えられている焔魔天曼荼羅図を比較検討した安嶋紀昭は、 園城寺本は京博本を転写したものであり、13 世紀に焔魔天の修法に実際に用いられた曼荼羅であろ
うと結論づけている。
園城寺本が「香の脂などによって全体に若干の黄味を帯びているのは、修法の本尊として永年用いられてきた必然の結果である」とのことである。
 以上のことから 11 ~ 13 世紀のころ、貴族層のあいだで焔魔天の修法が盛んに行われていたこと、 そしてその修法の場で、五道大神が重要な役割を担って登場していたことがわかる。
ただそれ以降の 時代では、焔魔天法がとりわけ秘法視されたため、五道大神に言及する仏書などは見いだされなくなる。
こうして日本文化の表面では五道大神はほぼその姿を消してしまった。

それに入れ替わるように牛頭天王が史料― 管見の範囲で最も早く牛頭天王が確認できるのは、

本朝世紀』久安 4 年(1148) に延久 2 年(1070)に祇園社の火災が起き「牛頭天皇御足焼損」したとの記事― 上に顕在化する。 

III 疫神五道大神と行疫神五頭天王

(1) 疫神五道大神
 『焔羅王供行法次第』は唐玄宗時代の密教僧不空の撰とされる施餓鬼法の作法を説いた儀軌書であ るが、総字数わずか約 4000 字の小編であるにもかかわらず、
疫病が猖獗を極め大きな社会問題になっていた時代を反映するのであろうか、くりかえし疫病に言及している。  

1是法疫病气病一切病悩時。宜修兼能修之。正報尽付死籍。能乞王削死籍付生籍。到疫病之家。多 誦大山府君呪。

 2可請太山府君。是王住宅山後有勇猛鬼王。刹那間遊行世界。行木札之病木札者疫病之異名也。以金剛 合掌。可誦眞言。

 3次若欲消除疫病氣病瘧病者。可供大山府君。若欲解脱惡人怨家呪咀者。又別可供大梵天王四天王 位即得解脱。若欲得福徳者。可別供二十八大藥叉毘沙門眷屬也。若欲拔濟正報之命者。可別供焔羅王五 道將軍。即得削死籍付生籍。(『大正新脩大蔵経』21 巻 p.374)
  五道大神が鍾馗とも重なって疫病をはやらせたり止めたりする疫神の性格を持っていたことは、拙著『オニ考』で紹介した敦煌の駆儺文からも明らかである。
『焔羅王供行法次第』では、五道大神ではなく五道将軍となっているが、五道大神と同じ神であり、この世に現れ出て人々の所業に応じて疫 病をはやらせたり止めたりし、死者の名簿(死籍)にある「鬼」の名を生者の名簿(生籍)に付け替えることができる、つまりは生殺与奪の権を手にする神と信じられていた。
焔魔天法の儀軌では太山府君と五道大神はつねに一緒に出てくるから、2の太山府君の住む山の後ろにいる「勇猛な鬼王」と は五道大神のことであろう。
疫病は「鬼」がもたらすと信じられていたから、「鬼」を支配する存在 すなわち「鬼」の統率者の意味で、「鬼王」とも呼ばれていたのである。「鬼」に対するいかにも中国民間的なこのような考え方は、日本では次第に薄れていき、入れ替わるように所謂「怨霊」が表面化していった。 

(2) 転法輪法の「行疫神五頭天王」
 塩津港遺跡起請文札で「祇園五頭天王」とある五頭天王は見慣れない神名であるが、のちに疫神と して人々の尊崇を受けるようになる牛頭天王の最初期の表記であったことは、拙著ですでに指摘したとおりである。
五頭天王はこの木札以外にも、『玉蕊』承久 2 年(1220)4 月 14 日の記事に「五頭天玉(原文ママ)」という形で現れているし、現在でも各地にかつて五頭天王と称していたという神社小祠が少なくない。

牛頭天王の表記が確定するまではこのような表記がひろく行われていたと考えられる。  
五頭から牛頭への表記の変化は像容の変化にも対応している。

藤沢隆子は今日に伝えられる牛頭天王像の遺例をつぶさに検討し、初期のものは三面ないしは四面の武将形が多いことを明らかにし、そして「最も初発性を看取できる」像は、武将形の立像で畏怖相を持つ大和郡山市光堂寺の牛頭天王像であり、牛を頭に戴くようになるのは後世に起きた変容であるとした。
この「五頭」の表記は「五道(ゴドウ)」の音声を引き継ぐとともに、語義的には多面体の像であることをも示すものであった。

この見慣れない五頭天王の語は、拙著の第二章第四節「武塔神とは何だったか」で「見え隠れする 五頭天王」と述べ注目した神名であるが、あらためて再度ここで取りあげてみたい。

この神名が出るのは東密系の儀軌書である『澤鈔』および『秘鈔問答』の「転法輪」の条においてである。
この儀軌 は唐・不空訳『轉法輪菩薩摧魔怨敵法』に基づくのであるが、その冒頭に次のように書かれている。
  佛言便説。世尊若有隣國擾侵國界。或自國内軍衆寡少。或復怯弱。或有不臣起惡叛逆。即應取苦 
揀木而作一幢。長十二指周圓八指削令極圓。如世尊所勅。一切天龍八部。令護諸國護諸國王。及護國界一切有情。爲除災禍令得安樂。若難起時。皆圖畫彼護國土神於幢上。
 『國訳轉法輪菩薩摧魔怨敵法』による訳文を掲げる。
「佛の言はく、便ち説け。世尊若し隣国の国界 を擾侵すること有らん、或は自の国内の軍衆寡少にして或は復た怯弱ならん、或は不臣のもの有りて 悪を起して叛逆せば、即ち苦楝木(栴檀)を取って一の幢を作る応し、長は十二指・周囲は八指にし て削って極めて円なら令めよ、世尊の勅したまふ所の如く、一切の天龍八部をして、諸国を護り諸の国王を護り、国界の一切の有情を護ら令め、災禍を除きて安楽を得せ令めんが為なり、若し難の起りし時は皆彼の国土を護る神を幢の上に図画せよ」。  
上田霊城の『真言密教事相概説』によれば、転法輪法は「摧魔怨敵法と称し、内乱あるいは外敵の 侵入等国家の怨敵を降伏するための調伏法として修せられた」という。
そして「単に調伏法といえばこの法を指すほどに各流とも殊に秘蔵する」ものであったが、本尊については異説が多いということである。  
いうまでもなく、この『轉法輪菩薩摧魔怨敵法』に「五頭天王」などという神名は出てこない、そ れでは『澤鈔』『秘鈔問答』に出る「五頭天王」とはいかなる神なのか。この転法輪法も秘密の修法 であるゆえ、部外者にはなかなか立ち入り難いのであるが、筆者なりの理解に基づきその素性につい て考察してみたい。

『澤鈔』と『秘鈔問答』いずれも東密系の書で内容もほぼ同じなので、以下『澤鈔』 の「転法輪」の条から引用する。
ただし、原文の割注は 2 行書きであるが、ここでは小字の 1 行書き に改めてある。

  幢事本説。苦練木長十二指。周圍八指。文。近代用銅如何中瓶前方立之。彼幢迴於二計而上畫ナ大藥叉形。下畫三大 龍王三大天后并日本神等。若用銅者。彫虚幢上下蓋令有八輻輪。輪端迴書十字佛頂呪(割注略)。(中 略)又幢中入白紙若絹畫怨家形本法五尺或七寸於兩足怨家姓名記之左姓右名又畫行役神像五頭天王也一肘量 而令踏怨家頭。又畫不動尊像而令踏其腹中也。此等最極祕事也。努能能可令隱便。
  (裏書)畫怨家形并行疫神又不動等事非説之一具事也。先怨家形ノ臥タルヲ畫テ。其怨家一人ニ 取テ頭ヲハ五頭天王ニ令踏。腹ヲハ不動ニ令踏。足ニハ怨家姓名ヲ書也。或不動ハ無テ 臥タル 怨家ニ取テ。足ニハ書彼姓名。頭ヲハ以五頭天王令踏。不動ヲ不畫事モアリ。又如前用事モアリ。
  此等兩傳也。 予私云。畫施主形ヲ令踏。怨家姓名常事也。而畫怨家形。足ニ書スル同姓名。頗無 謂事歟。幢行法之時安壇覆紙也。餘時取納之云云。伴怨家形結願之時、入爐火燒之。
 

上文を試みに訳してみると以下のようになる。(?)は意味不明箇所。
「幢を用いた行法本説では栴檀の 木で長さ十二指、周圍八指、文(?)。近代では銅を用いるのはどうしたことか、中瓶の前方に立てる。
かの幢は二計(?)を廻らせ上に二大夜叉の形を描き、下には三大龍王・三大天后ならびに日本神などを描く。
もし銅を用いるなら、幢の上下の蓋を透かし彫りして八輻輪の形にする。輪の端に十字佛頂呪を回し書きする(割 注略)(中略)。又幢という筒の中に白紙若しくは絹を入れ、怨家の形を書く本法五尺或七寸。
兩足に怨家姓名これを記す左に姓右に名。また行役神像五頭天王也、一肘量を書きて怨家の頭を踏ましむ。また不動尊像 を書きて其腹中を踏ましむ也。
此等は最極の祕事也、努めて能く能く隱便ならしむべし。(裏書)怨家形并に行疫神又 不動等を畫く事は、口に出して言ってはいけない事柄である。
先ず怨家形ノ臥タルヲ畫テ、其怨家一 人ニ取テ、頭ヲハ五頭天王ニ踏ましむ。
腹ヲハ不動ニ踏ましむ。足ニハ怨家の姓名ヲ書く也。或不動 ハ無テ臥タル怨家ニ取テ、足ニハ彼の姓名を書き、頭ヲハ五頭天王を以て踏ましむ。
不動を畫かざる こともあり......予私に云う、施主の形ヲ畫き怨家姓名を踏ましむは常事也。
而るに怨家の形を畫き、 足に同姓名を書するは、頗謂れ無き事か。
幢行法之時壇を安ず紙で覆う也。餘時これを取納め云云。怨 家の形は結願の時に伴い、爐火に入れこれを燒く」。  

転法輪法では幢という小さい筒を用いた秘儀が行われる。
それが決定的に重要な意味を持つのだが、 その幢事のところに行疫神の五頭天王が出てくるわけである。
上の原文で本説といっているのは不空の『轉法輪菩薩摧魔怨敵法』を指しており、そこでは苦揀木(栴檀)で作ったものを用いるが近代で は銅を用いるとある。
この幢のなかに降伏すべき怨敵の姿を画いた絵を入れ、その頭を絵に画いた五頭天王に、腹を不動明王に踏ませるというのであるから、尋常のことではない。
当然秘事として執り行うべき修法である。
このような場面で出てくるのが五頭天王なのである。ではこの五頭天王とは一体何なのか。  

 

 

転輪法の本尊は、種々あって『澤鈔』は「無能勝、金輪、地藏、轉法輪、彌勒、大輪、不動」の七 種を挙げるが、
「謂本尊曼荼羅其説非一、但師説転法輪菩薩以之爲説」(思うに本尊曼荼羅の説は一つ でない、ただ師説では転法輪菩薩これを以て説となす)と述べており、
この書は後白河法皇の子で真言宗仁和寺第六世門跡になった守覚が師の覚成より伝授された「折紙」を集めたものであるから、覚成は転法輪菩薩をこの修法の本尊と考えていたということであろう。
中国民間では、地獄十王の最後の王を五道転輪王というが、仏教にとりこまれた五道大神のことだと考えられている。
錦織亮介『天部の仏像事典』の五道大神の項で「十王中の五道転輪王はこの神を指す」とあり、また山本陽子は「十王図中の『甲冑の王』、五道転輪王とは、インド起源の佛教経典に見る五道守護の五道神が一旦中国で土着化し、再び中国仏教の十王信仰に組み込まれたものと考えられる」と述べている。

 

五道大神が五道転輪王になったその経緯はまだ不明のところが多いが、転法輪法の本尊としての転法輪菩薩を五道転輪王すなわち五道大神だと考える人がいたとしても不思議ではないであろう。
それゆえここに五道大神の日本語版である「(疫神)五頭天王」が出てくるのである。

(3) 転法輪法の幢行法

 上川通夫『平安京と中世仏教』に、『覚禅鈔』記載の次の 6 例の転法輪法の実施例が挙げられている。

 1 万寿二年(1025)三月 仁海が実施  
2 康和元年(1099)八月 範俊が実施。藤原師通が死去  3 久安六年(1150)六月 俊寛が実施  
4 応保二年(1162)五月二十五日 宝心・源運が実施。興福寺大衆を調伏  
5 安元三年(1177)五月一日~六月十八日 行海が実施  6 寿永二年(1183)九月十二日~十月十七日 勝賢が実施  担当するのはすべて真言宗の僧によるものである。
平安末から院政時代にかけてこの転法輪法はく りかえし実際に修され、「『凶徒』『逆賊』から『王城』平安京を守る」「呪殺の密儀であった」(上川 前掲書)。
また、横内裕人によれば6の寿永二年の修法は、表向きは平氏が西走した後の政治空白のなか、義仲と頼朝の覇権争いを解決するため、後白河院が企て、「醍醐寺勝賢が法住寺内裏で勤修し、 ......35 日間連続して行われ、......現下に繰り広げられていた内乱状況を終息するための調伏法であった」が、じつは「平氏追討を前提にした義仲調伏を目的としていたのであり、後白河院による秘された反義仲策の一環であった」という。  

転法輪法では、絵に画かれた五頭天王が幢と呼ばれる筒のなかで、やはり絵に画かれた怨敵を調伏する。
焔魔天法では五道大神が人頭幢の口から光が発したりあるいは白蓮花が開いたりする(焔魔天 の裁定結果)のを見て、人の善悪を最終的に決める、つまり焔魔天の裁定をこの世で執行する役割を担う。この世の人にとって五頭天王と五道大神は、ともに生殺与奪の権を手中にする神と考えられたに違いなく、この両者の機能は軌を一にする。
つまりは五頭(天王)は五道(大神)の言い換えであ るとしても矛盾がないのである。


牛頭天王誕生の謎を解く鍵

五道を五頭と言い換えるのに矛盾がないどころか、むしろ言い換えることによって素生を隠そうとしたと考えるべきであろう。
というのは焔魔天法や転法輪法の修法を必要とした密教僧や権門たちにとって、秘密の修法以外の場で、つまり平安時代を通じてすでに広く民間で行われていた疫神祭祀(通常「御霊会」と称される)などの場で、五道大神の神像と神名を公然と人々の前に晒しておくことはできなくなったと考えたに違いないからである。
物騒きわまりない畏怖すべきこの五道大神を密教寺 院や権門勢家の専有物にする必要があった。
五頭天王あるいは牛頭天王などという疫神に特化した新 たな祗園の天神を再創出する、いわばすり替え工作を施す必要が生じたのである。  
拙著『オニ考』でこの転法輪法の幢行法に言及した際たいへんな誤解をしていたことに、今回気づ いた。幢とは通常図 3 のような荘厳具であるが、それが図 4 のような傘に変形したと考えて(実はすこし変だなと思いつつ)そういう記述をした。

ところが、上掲書の上田霊城の「転法輪法」の説明によると、この修法は「転法輪筒を壇上に置く。
本軌(不空の儀軌)では幢の字を用い、苦揀木にて作 り、長十二指周円八指に削り極めて円かなしめると説くが、本邦では金銅製の円筒に作る。
長八寸、 口広四寸、筒の内外ともに白く鍍金する」とあり、通常の幢の形状とはまるで違っていたのである。 
ここでいう幢行法とは円筒形の筒の中に「怨家形ならびに行疫神、不動などを」紙に画いて入れて行う修法だった。
円筒ならば、図 4 の綾傘鉾(もっとも古い山鉾といわれる)のかたちはたしかに円筒を短く切った形に見える。
ありふれた筒の字ではなく「音通の故に借音」(『国訳秘密儀軌』第 8 巻『轉法輪菩薩摧魔怨敵法』の脚注)し、あえて幢の字を用いたのは何故であろうか。  
通常の筒の形でありながらことさらに幢と書くのは、本来それが焔魔天が手に持つあの不気味な人 頭幢であったことを示唆しているからではなかろうか。
つまり、それは五道 ( 大神 ) を五頭 ( 天王 ) と言い換えたのと同様に、転法輪筒は人頭幢の代用品だったのであり、「祇園天神」の素性(五道大神) 隠しの一環と考えられるのではなかろうか。
これがたんなる憶測にとどまらない証拠に、京都高山寺 に伝わる転法輪筒の表面(図5)には、たしかに『澤鈔』「幢行法」に書いている通りの不動明王と思しい像が二人の男を踏みつけている絵が描かれているのである(上川通夫前掲書)。

むすび― 牛頭天王誕生の秘密―
 ⑴これまでの八坂神社(祇園社)や牛頭天王についての諸家の研究を総合的に踏まえると、以下のよ うな諸点はほぼ間違いない事実として確認できるであろう。
平安時代、疫病を払う祭祀である御霊会や疫神祗園神信仰が広まり深化するのに伴って、祇
園社は二十二社の列に加えられるなど社格が高くなっていった。
三崎良周は「祇園社は疫病や賊乱除けの神であり、その建立の初めから、神と佛と混淆したような堂であった」と述べる。

祇園社はもと感神院祇園社と呼ばれていた。承平 5 年(935)の官符に「観慶寺」と記したと ころに注して「字祇園寺」とあり、さらに『日本紀略』延長 4 年(926)6 月 26 日の条に、「供養祇園天神堂、修行僧建立」とあり、観慶寺(祇園寺)の天神堂ともいわれていた。
この観慶寺の祇園社は、貞観年中に興福寺の円如が創建したと伝えられる(以上、久保田収『八坂神社の研究』による)。

祇園社興福寺の末寺であった時から祇園の天神が祭られていた。

(3) 祗園感神院は、天延 2 年(974)に興福寺配下から延暦寺の別院になるが、以後両寺は永年にわたってその支配権を争う。  

小論で明らかにしたように、塩津港遺跡木札にある祇園「五頭天王」とは牛頭天王の最初期の表記 であり、この五頭天王はもとを質せば、焔魔天の眷属である五道大神のことであった。

この五道大神 に対する信仰(おそれ)は、祇園社延暦寺の配下に入った10世紀末から院政期にかけて、焔魔天 や転法輪の密教修法が盛行するなか、貴族層のなかに広く深く浸透した。

このことを上記 3 点と組み 合わせると次のように言えるのではなかろうか。  
平安時代の疫神祭祀(御霊会など)を通じて、五道大神(日本では武塔神という)は疫神 = 祗園の 天神として尊崇を集めていたが、
平安末になって焔魔天法や転法輪法(摧魔怨敵法とも称す)の密教儀軌が新たにもたらされ、その修法が実際に行われるのに伴い、焔魔天の眷属としての五道大神の神威が飛躍的に高まった。

それらの密教修法において、五道大神はとりわけ秘匿を要する、もはや公衆 の面前に晒しておけるような神ではなくなった。
密教僧は、五道大神像を専有し秘匿しなければならないと考え、すでに祇園の天神として崇められていた疫神五道大神像を寺院の奥深く隠して(あるいは壊したりして)、それに替わる新たな祇園天神像を作り出す必要に迫られた。
その新たな祇園天神像こそ五頭天王(のちに牛頭天王)であった。
祇園の天神の素生が五道大神にほかならないことを隠すために、五頭天王をへて牛頭天王という新たな神を誕生させる必要があったのである。

塩津浜港遺跡木札に、上界の神五道大神と祇園五頭天王の双方が記されているのは、牛頭天王が誕生する秘密の過程を暗示するまことに貴重な資料といえる。
五頭から牛頭への変化は、前者が五道に近似しすぎて素性が容易に知れるのを嫌ったからであろう。   

今昔物語集』巻三十一「祇園比叡山末寺語 第二十四」は、延暦寺の末寺である蓮花寺の紅葉 を近くにある興福寺末寺の祇園別当良算が奪おうとしたが、怒った蓮花寺の住僧が自ら紅葉を伐り たおしてしまうという紅葉争いを描いている。

しかし両寺の争いの主客を転倒し、(蓮花寺の)紅葉 を(祇園の)天神(実は五道大神)像に入れ替えて読むと、ことの真相が見えてくる。
つまり延暦寺の末寺である蓮花寺の僧が、祇園の天神像を奪おうとしたところ、怒った興福寺末寺の祇園側がその 神像を自ら壊してしまったという、祇園天神像の争奪を象徴的に語った説話と考えるとよく腑に落ちる。

 

非文字資料研究センター研究協力者 
神奈川大学名誉教授

山口建治

 

https://kanagawa-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=12667&item_no=1&attribute_id=18&file_no=2