マルドゥク信仰の新バビロニア、春の新年祭

バビロンは、現在イラクバグダッドの南、ユーフラテス川の近くにありました。
メソポタミアの人々は、 11日間(10日間、12日間説もある)に渡って、アキツと呼ばれる新年の祝いを春に行いました。

この時期には、森羅万象の新生を願いました。

祭事で創世記を読み上げ、マルドゥク(古代バビロニアの主神;日の神)とティアマト(カオスの女神)の壮絶な戦いから誕生した宇宙の秩序について人々に説いたのでした。

 


以下、消えた古代文明都市バビロニア

(P.アイゼレ著)より抜粋

シュメール語でzadmuk(年の始め)、アッカド語でakituと呼ばれるこの祭についての最古の記録は、紀元前2000年の末、ラガシュのグデアの時代のものである。

当時祭は7日間続いた。そして祭の間は、身分の違いはなくなり、裁判の判決は下されず、また両親は子供を罰することをやめ、日常の仕事もたいていは休みになった。

新バビロニア時代には、祝祭は春分の日に始まる12日間に延びた。(ニサン月、すなわち三月中旬〜四月中旬の最初の12日間)

新年祭はバビロンの最大の宗教的祝祭であるだけではなかった。
それには国家生活全体に対する基本的な意義が込められていたのである。

神官による、今後一年間の出来事の予言に至るまでの儀式を無事終了することが、帝国の存続にとっては決定的に重要であった。

したがって、戦争や王の不在などのために祝祭を行えないことは、国家的な不幸とされた。
特に祝祭の後半では王が中心になるべきものとされていたからである。

祝祭はウルク、ウル、ハランなど、全国各地で行われたが、王は最も華麗な新年祭をバビロンでとり行うので、それ以外の地では、「代用の王」で満足しなければならなかった。

ネブカドネザルの碑文は、毎年地方の上流の士が、首都の祝祭に洪水のように流れ込んだ様子を克明に伝えている。

ハインリヒ・チンマーマン、テオドール・ドームバルトなどのアッシリア学者は、既知のバビロニアの儀式(といっても前途の12日間の中の数日についてであるが)を手掛かりにして、新年の祝祭がネブカドネザルの時代にどのように行われたかを再構成しようと試みた。

祭のスペクタクルの中でのもうひとつの主役を演じたのが、マルドゥク、つまりバビロニアの諸神中の最高神、そしてバビロンの神であった。

 

 

世界の創造者エアの賢明な息子であるマルドゥクは、この祭では人間を病気、苦悩、罪悪から解放する神とされる。

マルドゥクは、裏切られ、「下界の山地に」捕らえられ、死んだ。そして、「傷つけられ、槍に刺され、打ち砕かれ、殺され、消え去った。」と記されているが、そのマルドゥクは、国土とその人民に新しい栄光と栄華をもたらすために再び立ち上がる。

これには、殺害されて地獄に下り、そして復活したキリストの受難との類似を感じさせられる。
この両者は形容語に至るまで似ている。

 

マルドゥクも「支配者の主、王の王」と呼ばれた。またキリスト教の暦において受難節が復活(復活祭)の前に置かれ、

いわゆる受難劇がとり行われているように、バビロンの一連の新年の歓迎の祭も、先に混乱と不安の問答劇が繰り広げられて幕開けとなる。

ニサン月の一日に、民衆は彼らの神が「消え」、「山地に」捕らえられていることを知る。

人々は神官を取り囲み、矢のように問いを浴びせる。「彼はどこで監視されているのか?」「彼はどこに監禁されているのか」
ー町中で神を探すが見つからない‥。

こうした問答劇、そしてその後で姿を消した神。
神と共に生命を与える光である太陽も「消え去る」のであるーを、ますます深まってゆく絶望の中で探し求めるといったことが、数日間にわたって行われる。

この舞台に並行して、他の式典や祈祷、それに宗教的儀式が行われるが、その中心になるのがマルドゥクである。

ー尤もこの時マルドゥクは人々の前から姿を消しているわけだから、より正確にいえば、それはエサギラ神殿にあるマルドゥクの像で、この像はこの頃特に華やかに飾られ、その前で司教が定められた祈祷を詠み、他の神官たちが食物と酒を供えた。

最初のクライマックスが四日目の夜に訪れる。またもマルドゥクとその妻のサルパニトゥムに生贄が捧げられ、司教は星座の正確な位置を定め、それに対応する祈りの文を朗唱しなくてはならない。

それからマルドゥクの立像の目前で天地創造叙事詩が朗唱される。
それは「Enuma elisch」(かつて天国にて‥)という言葉で始まるが、これは聖書の創世記の冒頭「始めに神は‥を創造した」に相当するものであろう。

このようにして宇宙全体が、毎年繰り返される人間と大地の神秘的な生成の中に組み入れられるのだ。
ーよって、然り、定められた儀式を行わないならば、全宇宙は静止してしまうことであろう!

五日目、神殿は礼拝のうちに清められ、エサギラの庭では一頭の牡羊、「贖罪の羊」の儀式的な屠殺が行われる。
羊の首が切り落とされ、その血を神殿の壁に塗りつける。

この行為によって神殿がその罪を清められたことが象徴的に表される。

この儀式によってあらゆる悪しきもの、国家にとって危険なものが羊に移され、その羊の死体はユーフラテス河に投げ込まれる。

その岸辺にはマルドゥクの息子ナブの神像を乗せたバーク船(三本マストの帆船)が到着し、
民衆が集まって、その神像がすでに飾り終わった礼拝堂の中央の座に着くのを待っている。

屠殺と清めの儀式の遂行によって身を穢した祈祷神官は、祭が終わるまで草原に身を隠さなくてはならない。

ユダヤの贖罪の生贄を強く想起させるこの儀式(ヘブライ語ではkippur)は、事実「贖罪の生贄」(アッカド語でkupparu)とも呼ばれていた。

贖罪の生贄の日には、王が非常に重要な役割を果たす生贄の儀式も始まる。

社会生活の中心人物であり、神々と接触する者でもあるバビロンの支配者が、マルドゥクの神殿で彼の権力のあらゆる象徴ー王笏、指輪、王冠ーを神を前にして放棄し、それから過去一年間の彼の行為についての報告を行う。

彼は民衆の代表として民衆の罪を一身に引き受け、マルドゥクの像の前に謙虚にひざまずき、あらゆる暴力と不正を退け、そして過ぎし一年のあらゆる不幸な事件について自身の潔白を証明しようと努める。

これを受けて、司教urigalluが王の顔面を殴り、王の耳を引いて、将来その義務を忠実に履行するように説く。

この後王は、王の象徴で再び身を飾ることを許される。
儀式の終わりに司教は、もう一度王を殴る。
この平手打ちの後、王の顔面に涙が流れればそれは、この先一年間の吉兆とされる。

この奇妙な慣習は、おそらく雨を懇願することが比喩的に表された呪術だったのかも知れない。

その日の夜、赦祷が与えられた後で、王と司教は神殿の庭で共同で一頭の白い牝牛を生贄に捧げる。


六日目、長らく待ちわびていた神々の像、特にボルシッパからのナブ神の像などがにぎにぎしい行列に守られてマルドゥク神殿に到着する。

華美に飾り立て、それらのうちの一部は確かに非常に価値のある立像が、あるいはニップールとウルクから、あるいはラガシュやシッパルから、車やバーク船に乗せられてバビロンに入城する様は、さぞかし華やかな光景をつくり出したに違いない。

各人がそれぞれの神、町の神を送った。それらの神は平生はバビロニアの神々の世界ではさしたる重要な地位を持たないが、それぞれの町では最も偉大なる者であった。

しかしユダヤの予言者は、バビロニア人の人工的な神を嘲笑するのみであった。

「彼らの崇拝するものは、林から切り出した木で、木工の手で、斧をもって造ったものだ、人々は銀や金をもってそれを飾り、くぎと金槌をもって動かないようにそれを留める。

その偶像は、瓜畑のかかしのようで、ものを言うことができない。また歩くこともできないから、人に運んでもらわなければならない」(エレミヤ書十章)

祭の残りの日々については、それが記録された粘土板の文章がごく断片的にしか残っていないので、きわめて不完全にしかわからない。
いずれにしても、この祭の間に、来るべき一年についての王と国の運命の決定といったような重要な事柄が行われた。

この予言の終わりに、王はその即位の時と同じように、マルドゥクの手を握る。
そうしてそのジェスチャーによって、さらに今後一年間はその職に留まることが保証されたのである。

この後マルドゥクの像はマクアと呼ばれた専用の船に移される。
それから、装飾が施され熱狂的な民衆が両岸に並んだユーフラテス河を遡って、王と神を乗せた船は、バビロンの郊外にあるビット・アキトゥ、すなわち「新年祭会館」に赴く。

名前からして明らかなように、もっぱら新年祭に使用されたこの神殿での祝典については、残念ながら何もわかっていない。

ここで一種の「宗教劇」の形で、マルドゥクの捕囚と苦悩、そして復活が上演されたと推測する研究者もいるが、この劇の内容については、すでに記した場面以外は何もわからない。

とにかく第十一日目に、人々は同じ道を経て帰ってくる。王がマルドゥクの立像と手を取り合い、神官と讃美歌を歌う中を、神々の像の行列は獅子で飾られた見事な行列街道を進む。

街道は祝祭会館からイシュタル門を経て町の中へと通じるもので、これはネブカドネザルが祝いのためにわざわざ建設させたものである。


これについて、王のある祈りにこう記されている。
「ナブとマルドゥクよ、この街道を楽しみながら行列で進む時、善きことがあなた方の唇に浮かびますように。
生きている限り私が限りなく健康で、あなた方を歓びとしてこの街道を行進できますように。長生きし、そして永久(とこしえ)に此処に留まれますように!」

祝いの儀式のクライマックスとして、マルドゥクとその奥方サルパニトゥムの神聖な結婚式が催されるーというよりは、国土が来るべき一年も豊穣で豊かであることを保証するために、国王が最高位の女司祭(といってもおそらく神殿の女奴隷に過ぎない)と神聖な結婚をするといった方がよかろう。

新バビロニア時代には祭の間の少なくとも数日間、おそらくはマルドゥクが捕われている間に、ローマの農神祭に似たような状態が国内を支配した。
こうした時には奴隷が主人となり、主人は奴隷になる。
そして「代用の王」が支配者の地位につくが、この「代用の王」はおそらく「君主のような生活」を数日間過ごしたあとで、人間の姿をした「贖罪の羊」として、過去一年間の王の過失の償いをしなくてはならなかった。
これ以上詳しいことはわからない。

ニサン月の12日に新年祭は終わり、ナブ神の立像はボルシッパに帰り、あまたの貴賤の客はそれぞれの郷里に帰る。
呪文を唱える神官は草原から市内へ戻ることを許され、マルドゥクは改めてその国土と人民を支配する。

こうしてバビロンに再び日常生活が始まる。


消えた古代文明都市バビロニア
P.アイゼレ著

 

バビロニアには、各都市の守護神がいたという。

それが一斉にバビロンに集まる様子は、神無月に地方の神々が出雲に集まるさまとよく似ている。