民族宗教における柱の信仰と儀礼①(宮家 準教授)

民俗宗教における柱の信仰と儀礼
宮家 準(國學院大學神道文化学部教授)

縄文時代を代表する三内丸山遺跡では、
6本の巨大な柱を立てて西方のはるか彼方の山に沈む太陽を拝し、
さらに柱を天と地を結ぶ架け橋としたことが推測されている。

https://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/old/010320/index.html

 

また日本では古来神格の名数として柱が用いられている。このハシラの語義に関しては、

「ハシ」は屋根と地のハシ(間)にある物の意、
ラは助辞(『古事記伝』『雅言考』『大言海』)。

ハシラ(間等)の義 (『言元梯』)。
ハは永久の義、 シラはシルシ(標)の義(『古史通』)とされている。

これを宗教的に敷衍すると、ハシラは上と下の間にあって両者を永久に結びつける標と考えることが出来る。

なお日本の民俗宗教では、
柱は神霊の 「依り代」とされており、
このことが神格の名数を柱とする根拠となっているのである。

本講演ではこうしたことを考慮に入れて、日本の民俗宗教に見られる柱の信仰と儀礼
民俗儀礼に 見られる柱、
記紀神話の天の御柱
中世神話に於けるその解釈、
伊勢神宮心御柱
吉田神道の大元宮の柱、
修験道の柱源護摩や柱松、
天理教のかんろだいの順に比較検討し、
最後にこれらをアジアの 民俗宗教に見られる柱の信仰と儀礼と比較してみることにしたい。

なお本講演の視点は柱という宗教的なシンボル、それをめぐってなされる儀礼の根底にひそむ意味 を解明するという視点に立っている。

その際に柱にかかわる種々宗教現象を相互に比較して本質を解明するという視点に立つものゆえ、歴史学などのように史料の吟味を厳格に行うものではなく、
その現象をどう読みとるかということを目的とするものであることを、あらかじめおことわりしておきたい。

1.民俗儀礼に見られる柱

一般の民家で最も重要視されるのは土間との境に立つ大黒柱である。
この柱は建前の最初に御神酒や塩で清めた礎石の上に立てられ、
御幣をつけ、蓑と笠がぶらさげられる。

そして家を建て終えると大黒柱の上方に大黒と恵比寿をまつり、
粥などを供えて守護を祈願する。なおすでにある家に転居した際にも、
まず大黒柱に粥を供えて守護を祈っている。

そこで暮らすようになると
正月に粥を供えて祈願したり、
主婦が布を織りおえたり、夫や子供の衣物を縫いおえると、
まず大黒柱に懸けて、祈りをこめていた。

ちなみに童謡に「柱の疵はおととしの五月五日の背くらべ」と歌われているが、
この柱は子供の成育を見守る大黒柱を意味している。

このように大黒柱は家屋を支えるのみでなく、
家族を守護し、その成育を助けると信じられたのである。

こうしたこともあって、一家を支える人を大黒柱 といったり、主婦をうちの大黒と呼んでいる。

神社の祭礼などで神霊の「依り代」として柱を立てることは、
つとに柳田国男折口信夫によって 
指摘され、
全国各地の事例が報告されているが、
ここでは卯月8日の「天道花」と盆の「柱松(はしらまつ)」 について簡単に紹介しておきたい。

卯月(4月)8日は、柳田民俗学では水分神と祖霊の性格を持つ山の神が里人に迎えられて田の神となり、
稲の生長を守り始める日とされている。

この神は収穫後の秋に子孫と新穀を共食したうえで再び山に帰って山の神となる。
これが神社の春祭り、秋祭りのはじ まりとしている。

この卯月八日に山の神を里に迎えるにあたって、

里人はツツジシャクナゲ、ウツギなどの花を長い竿の先につけた天道花を庭や軒先に立てている。
これは山の神霊の「招ぎ代」ともいえるものである。

この天道花は八日花、夏花、立て花とも呼ばれている。
日本の仏教では4月8日を釈迦の誕生日とし、
各寺では屋根を花でかざった小さな花御堂に誕生仏を安置して甘茶を灌いで祝っている。

盆には寺院の境内などに柴草で作った柱の先端に御幣や榊をつけたものを立てて、
下から松明などを投げて御幣への点火を競う柱松という行事が
畿内、長野、山口などで行われている。

また各地で新仏が迷わずに家に帰るように頂に葉をつけた杉、檜、竹を立て、
中ほどにこれも葉をつけた横木をわたす「高灯籠」が立てられている。

この両者はともに祖霊を迎える招ぎ代と考えられるものである。

ただ後述するように戸隠、英彦山などでは「柱松」とよばれる独自の修験行事がある。

 

2.記紀神話に見られる柱

今は日本神話といった場合は、まず『古事記』があげられるが、
これは本居宣長が『古事記伝』を 著わして以後のことで、
本講演で主にとりあげる中世神話、吉田神道修験道では、『日本書紀』の影響がより強く認められる。

そこで、ここではまず、『日本書紀』の天地開闢と国土形成の神話に見られる柱にかかわる記述を紹介しておきたい。

日本書紀』の本文では天地開闢に関しては天地陰陽が分れず鶏卵のように混沌とした状態の時、
ほの黒い中に「牙(きざし) 」があらわれ、清く明るいものがたなびいて天、重く濁ったものが土となった。 

そしてこの後に「神聖(かみ)」が生まれた。なお天地開闢の始めの大地は、水の上に浮かぶ魚のような状態であった。

その時天地の中から「葦牙」のようなものがあらわれ、それが国常立尊になったとしている。

ここでは混沌の中からまず「牙」があらわれ、ついで天地・陰陽が成立し、神聖が出現している。

こと、天地の中から葦牙(あしかび)のようなものが生じ、それが国常立尊となっていることに注目しておきたい。 

一方『古事記』では、天地開闢の時、高天原天御中主神高皇産霊神神産巣日神の独神が現れて身を隠した。

ついで国が稚く浮脂のようにただよっている時葦牙のように萌えあがるものがあらわれ、
そこから宇麻志阿斯訶備比古遲神(うましあしかびこじのかみ)、天之常立神の独神が現れて姿を隠したとしている。

このように『古事記』では、まず高天原での独神の出現が語られ、
葦牙から生まれた神も、天之常立神とするというように天界に力点が置かれているのである。

国生みに関しては『日本書紀』の本文では
伊弉諾尊伊弉冉尊が天浮橋に立って、
この底つ下に国があるに違いないと云って
「天の瓊矛(あめのぬぼこ)」を下して探ると青海原があった。

さらに矛の先からしたたり 落ちた潮がかたまって島が出来た。
そこで二人の神はこの島をオノコロ島と名づけ、そこに降って、 この嶋を国中の柱として、
男神は左から女神は右からまわって
「ミトノマグワイ」をして日本の国々、山川草木、神々を生んだとしている。

なお『日本書紀』の一書では二神はオノコロ島に降って八尋殿を化作(みた)て、
また天の御柱を化堅(みた)てて、その柱をまわってミトノマグワイをしたとしている。

ただし『古事記』では、天つ神が二神にただよっている国を固めるよう命じて、
天の瓊矛を与え、それに応じて二神が矛で海を探り、
潮が固まって出来たオノコロ島に降りて、天の御柱を見立て、
さらに八尋殿を見立てて、その周囲をまわってミトノマグワイをし、国生みを行ったとしている。

いずれにしろ 国生みの話では海をかきまぜ、
天の瓊矛からしたたりおちた潮がかたまって島となり、
その島に天降った二神が八尋殿に安置されたと思われる天の御柱をまわって日本の国土、山川草木、神々を生むというように、
矛、柱が国を始め万物を生み出す根源ともいえる重要な要素となっている。

その際『日本書紀』では、伊弉諾尊伊弉冉尊の二神が相談の上で国生みをしているのに対して、『古事記』では 天の神の命令でなされているということが大きく異なっている。

 

3.中世神話に見られる柱

中世になると、伊勢神道などで『日本書紀』に見られる天地開闢や国土の形成の神話を仏教、
とくに密教の視点から捉えなおすことが試みられた。

周知のように伊勢神道は鎌倉初期から中期にかけて 成立した「神道五部書」に始まり、
度会家行(1256-1356)の『類聚神祇本源』によって大成された。 

本書の中で家行は日本の天地開闢神話を論じるにあたって
官家(『日本書紀』『先代旧事本紀』など)・ 社家(「神道五部書」など)・釈家(『大和葛城宝山記』など)のそれぞれ括弧内に入れた書物などを引用している。

ここでは後にとりあげる修験道吉田神道にもその影響が見られる、
葛城を拠点とした修験者の手による『大和葛城宝山記』の開闢神話を検討することにしたい。

本書ではまず冒頭に「神祇」の項を設けて、
水が変じて天地が生じたとし、
その経緯を次のように説明している。

十方の風が相触れて大水を保っていた。
その水の上に 1000 の頭 2000 の手足を持つ異形の神聖が化生した。
この神はヴィシュヌ神で常住慈悲神王と名づけられた。

この神の臍から多くの太陽が照らすような明るい光を発する金色の1000 の花弁を持つ妙宝蓮華が出現し、
その中に結跏趺坐した人神がやはり無量の光明をはなっていた。

この神は梵天王と名づけられたが、
その心から八子が生まれ、八子は天地人民を生んだ。
なおこの梵天王は天神とも名づけられ、

天帝の祖神であるとしている。

ヴィシュヌ神は紀元前 12 世紀から、
紀元前3世紀頃に成立したリグ・ヴェーダに見られるヒンズー教の太陽神で、
迦楼羅(金翅鳥)を乗り物とし、大蛇を敷物とするとしている。

ちなみに日本では迦楼羅烏天狗とされている。

一方梵天王は万物の根源であるブラフマンを神格化したもので、諸王の長である。

なお上記の記述のうち、最初から梵天王の八子が天地人民を生むとの記載までは
『 ぞうひゆきょう 雑譬喩経』(一名『菩薩度人経』)の引用である。

そしてこの経の記載をうける形で梵天王は天神で天皇の祖神としているのである。 

国生みに関しては「大日本洲造化の神」の項に、

第六天宮の主の大自在天王でもある伊弉諾尊伊弉冉尊の二尊は、
「皇天」(「天神」か)から天の瓊矛を受けて、
その呪力を用いて日神、月神を作り、 
四天下を照らすとともに山川草木を加持して、種々の未曽有のことを行なった。

そして中国やインドの衆生を救済し、
現在は日本の金剛山にいるとしている。

 

ここでは諾・冉二尊の本地を第六天宮の主の大自在天王としている。
そして天の瓊戈は日月を作り、山川草木に奇瑞をもたらす呪具としている。

なお『大和葛城宝山記』では、上記の冒頭の天地開闢の記述の他に「水大の元始」の項で、
高天の海原に生じた葦牙のような霊物から神聖が化生し、
天神、大梵天王、尸棄大梵天王と名づけられた。 

この霊物は天帝の御代には天の瓊矛、金剛宝杵と呼ばれ、神人の財とされた。

地神の御代には天の御量柱 (みはかりばしら)、国の御量柱とされ、日本の国の中央に立てて、
常住慈悲心王の柱、正覚正智の宝として心の御柱と名づけられた。

なお天地人民、東西南北、日月星辰、山川草木のすべては天の瓊矛の応変ゆえ、不二平等である。

そして葛城山の守護神の発起王が「心柱の三昧耶形は独鈷、すなわち金剛宝杵で独一法身の智剣である。

この不動明王の大悲の徳を示すために海の水が変じて独鈷の形となったのである。

さらに独鈷は倶利迦羅竜王明王八大竜王となった。
そして十二神将が常に心柱を守護している。

これは不動明王が本尊であることによる」としている。

また「大八州、国の神の座処」の項やまとでは、この間のことを日の御子の伊弉諾尊と月の御子の伊弉冉尊が皇天の詔に従って
天の瓊矛を山跡ますみのかがみ (大和)の中央に立てて、
国家の心柱として八尋殿を造った。

さらに2神は真経津鏡(八咫鏡)を捧持して、
日神、月神と化生して天下を治めたとしている。

そしてここで国家の心柱としているものは、
具体的には伊勢神宮の内宮・外宮の本殿下にある心御柱をさすとしている。
そこで次にはこの心御柱について検討することにしたい。

4.伊勢神宮心御柱

心御柱伊勢神宮の内宮及び外宮の正殿の御霊代の鎮座している床の真下に奉建されている聖なる柱である。

この柱は持統天皇の代以来、20 年に一度の式年遷宮のたびに建立され、延暦 23(804)年 になる『延暦儀式帳』にも記載されている。

中世期の心御柱は、鎌倉初期になる『宝基本記』に忌柱、 天御柱、天の御量柱ともいうとし、
「一気から生起し天地の形、陰陽の根源、万物の本体で、皇帝の命、 国家の固、富の物代で永遠に不動の存在で、大地の底の岩に大宮柱として建立して、神徳を崇めるもの」としている。

また鎌倉初期成立の度会行忠『心御柱記』によると、
心御柱は経4寸(天の四徳を示す)、高さ5尺の柱に五色の線をまき(五行を示す)、先端に8枚の榊の葉をつけたものである。 

そして伊弉諾尊伊弉冉尊が陰陽変通の本基にもとづいて、
諸神を生み出すもととし、
万物が天皇に帰し、国家を助け、天下を固めることを示すもので三十六禽、十二神、八大竜王が守護している。

それ故これに欠損が見られると、
天災がおこるとされ、新たに奉建されている。

一般には式年遷宮に際して、木元祭、地鎮祭、奉遷、奉建の順序で心御柱建立の儀式がなされている。

https://www.isejingu.or.jp/sengu/the62nd/

 

その概要を簡単に紹介すると、
まず心御柱に用いる木の根元で山の神をまつる木元祭を行な ったうえで伐採し、
長さ5尺経4寸の柱にして宮地に運ぶ。

宮地ではまず心御柱を立てる土地の神を鎮める地鎮祭をし、穴を掘って、地符、鎮謝符、鬼符を各1つおさめ、石上に賢木を立てて祭りを行
なう。

いよいよ柱を立てる際には、
元の柱の四方に楉を立てて、そこから元の心御柱の頂に桁を渡して、
高さをはかる(図1「元の心御柱と楉・桁」参照)。

そして元の柱を掘り出して、忌穴を掘り、 
その穴の中に守護神や祭物
【粢米(しとぎまい)、供物、天平の瓮(いらか)と呼ばれるカワラケ 800 枚など】
をおさめる。 

この守護神は「神道五部書」の1つ『御鎮座伝記』によると、竜神と土地神とされている。

そしてこの穴に五色の糸を巻き、
上に8枚の榊の葉をつけた新しい心御柱を地上からの高さを前のものと同じにして立てる「心御柱奉遷の儀」が行なわれる。

なおこうして床下に心御柱の建立をおえると、
そこに幡を立てて五穀の粥を供物として献上している。

時代は下るが寛文年間(1661-73)に自省軒宋因の書写した「大神宮心御柱記異本」によると、
心御柱にする檜は長さを8尺に切り八角に削って朝廷に差し出し、
天皇の身長の処に印をつけてもらって、そこで切ったという。

そしてこの柱に鏡をかけて、黄金の鉢にのせ、これも黄金の榊をそえて立てた。

それゆえ、心御柱天皇の玉体そのものである。

また黄金の色は葦牙を示している。

ところで真言宗広沢流の智円は正中元(1324)年、
伊勢に参宮した際に当山正大先達の伊勢の世義
寺の治部律師の所に泊って、
彼から「御即位辰狐法」を始め伊勢に伝わる秘法を授かった。

彼がこれらをまとめたのが『鼻帰書』である。
本書によると大日本国の義は天照大神と大峰に示されている。

天照大神は智種をはじめ一種の義を含む独鈷形をなす日本の仏法の棟梁であり、
大峰は国の軸で、両界曼荼羅を石面に顕わしている。

このように日本は天然法璽の真言の国で顕密兼帯の地なのである。 

この日本を代表する行人は、役行者と大師(弘法)で、
行人の居処は弁財天を祀る竹生島と吉野の金峰山であるとする。

このように本書は『大和葛城宝山記』と同様に修験的な色彩の強いものである。

この『鼻帰書』では国生みについて、

「大梵天王(天照大神)が、
第六天の魔王の指示で日本国を得るために、
逆鉾(あめのさかほこ)を外宮の酒殿(逆殿)に下した。
この天逆鉾は独鈷のことであり、そのこともあって日本国は独鈷の形をしている」とする。

さらに本書では独鈷をいわば護法として自由に操作する乙護法(おとごほう)についてもふれている。

そして心御柱というのは独鈷の形をした天逆鉾のことで、
その下には白蛇すなわち福の神の弁財天が住している。

坂口玉峰 弁財天白蛇図

 

心御柱は龍樹ともいうが、この龍は白蛇、樹は心御柱を示している。

ちなみに本書では外宮の豊受大神の「豊」は蛇形の福神が与える豊穣を意味し、
「受」は内宮の神 がそれを享受することを示すとの度会常昌(1263-1339)の説をあげている。

なお修験道では役行者が白鳳 20(692)年に箕面の滝穴で龍樹菩薩と弁財天から秘密の灌頂を授かり、箕面寺を開く話が伝えられている。

また相応(831-918)が葛川から京にむかう途中で川に念珠を落とした際に、
乙護法を修して独鈷を川に投じると、
独鈷が蛇が蛙を追うように念珠を追い掛けてとりもどした話も知られている。

 

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/212316

このように独鈷は修法者の意に応じて験力を行使する呪具ともされているのである。

『鼻帰書』はこれにつづいて心御柱は閻浮堤の衆生の心法をあらわす須弥山であるともしている。 

そして須弥山は難陀(なんだ)竜王、抜難陀(ばつなんだ)竜王によって守られているとの『倶舎論』の説を紹介している。
さらに心御柱の料木とする檜には根を四方にはり、
枝も4本出ていて須弥山を思わせる木を選ぶように指示している。

ちなみに『渓嵐拾葉集』でも、
伊勢の神殿中央下の心御柱は須弥山と同じで、
難陀、抜難陀の竜王が擁護しているとしている。

なお『鼻帰書』では、
神宮の建物は床は方形で地、
神座は円輪で水、
屋根は三角で火、
千木は半月形で風、
堅魚木(かつおぎ)は円形で空を示すというように、
五輪をあらわすとしている。

また心御柱を黄・白・赤・黒・青の五色の糸でまくのは、地水火風空の五輪になぞらえてのことである。

特に外宮の心御柱には上部に五輪を示す5つの丸印が付されている(第 2 図「心御柱と天の瓊矛」参照)。

このように天の瓊戈を天逆鉾と呼び、
大日如来が変化した独鈷とすることに加えて、
これを五輪の卒都婆とすることには、
伊勢の西南に位置し、東大峰とも通称される仙宮院に伝わる『伊勢瑞柏鎮守仙宮祕文』にも記載されている。

(②に続く)

 

心の御柱地震の振動を逃す?

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