地震を起こす龍や鯰と、それを抑え鎮める柱という概念

要石とは、何であろうか。
中世の要石とはどのようなものであったかを明らかにしてゆくことにしよう。

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その場合の大前提を三点だけ指摘しておくと、第一点は、要石とは本来「金輪際」、すなわち仏教の宇宙観による〈大地〉の最も深いところにまで達している長大な柱であるということだ。

第二点は、要石は、近世〈日本〉の鯰絵などでおなじみの、大鯰と関連していることである。

そして第三点としては、要石は地震ないし震動に関連しており、揺れる〈大地〉を繋ぎとめる役割を果たしていることである。

金輪際とは、地層・地下の最も奥深いところである。

そこから生えている石や杭や柱とは、一体何かが問われる。

日本書紀によれば、
伊邪那岐命伊邪那美命両神が、
天の浮橋に立って、この下に国はないだろうかと、天の瓊鉾(ぬぼこ)を青海原に差し下ろして掻き探すと、矛先の滴りが落ちて凝り固まり、一つの島になった。
おのころ島である。

沼島は、勾玉のような形をしている

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%8E%E3%82%B4%E3%83%AD%E5%B3%B6


二人はその島に降りて、国の柱をめぐり、遘合

(みとのまぐわい)をして、大八洲を産んだのであった。

日本書紀の中世的解釈すなわち「中世日本紀」にも見られるような、中世のメタファー的思考によれば、そのおのころ島とは〈日本〉であり、
国生みの聖なる道具、天瓊鉾は聖なるモノ=独鉾であり、また、おのころ島の国の柱でもあった。

それは、日本の中央に立てられた「国中の柱」あるいは「国軸(こくじく)」であって、
つまりは日本の中心軸であるとともに、
〈国土〉をしっかりと大地の奥底の金輪際に繋ぎとめておく柱・杭・石であったのである。

こうして、日本を独鉾のかたちで表象した、
中世の宗教思想(本地垂迹神仏習合)を特徴づけるメタファー的思考は、
ふわふわと漂いがちな〈国土〉を繋ぎとめる石・柱・杭を生み出し、それを日本の中心軸とした。

それらの中心軸の存在ゆえに、震動しがちな日本も守られていると考えたのである。

日本書紀巻一聞書には、国中の柱つまり国軸として、常陸の「鹿島動石(ゆるぐいし)」、
伊勢大神宮」、大和の「金剛山」、日向の「狗留孫仏(くるそんぶつ)」が挙げられると記している。

常陸のそれは鹿島動石であって、まだ要石とは呼ばれていない。
しかし国土の中心軸として認識されていたことを物語っている。
すなわち、この「動石」こそが、揺らぐけれども決して抜けない石であり、鳴動する聖なる石であったのではないのか。

地震などの鳴動との関連は明瞭であろう。
鹿島の動石とは、中世宗教思想のメタファー的思考が生み出した〈国土〉の中心軸の一つであったのだ。
とすれば、ここに鹿島の要石の誕生を見ることができよう。

こうして、「中世日本史」の語る国土の中心軸をめぐる言説は、
その国軸を独鉾のかたちとしただけでなくて、
日本の各地の聖地にその姿を見出していったのであり、
それらは当然、〈国土〉を金輪際に繋ぎとめる柱としてイメージされたのであった。
その一つとして、鹿島の動石も登場したのである。

 

鹿島神宮の要石(かなめいし)の謎                  常陸国一ノ宮は鹿島神宮下総国一ノ宮は香取神宮である。それぞれ国府石岡市市川市である。この両神宮における共通点を見てみると非常に興味深い一致点があることに驚かされます。

両神宮(神社)ともに創建は古くて記録ははっきりしませんが、鹿島神宮神武天皇元年の紀元前660年の創建とされ、香取神宮神武天皇18年(紀元前643年)と伝えられています。これは神社の総元締めである伊勢神宮垂仁天皇26年(紀元前4年)(内宮)とされており、これより600年以上前です。当時の日本は卑弥呼が3世紀始めであり、大和朝廷の成立が4世紀頃と思われているので、はっきりした記録がないのも当然とも言えるでしょう。また平安時代延喜式によると伊勢神宮鹿島神宮香取神宮の3社だけが神宮の称号で呼ばれており、これは江戸時代まで続いています。それだけ特別の神社なのです。

 

〈日本〉を取り巻いて円環をなす龍体が
〈日本図〉に描かれているというシンボリズムについては、さらに考察を行っておかねばならない。

なにゆえ龍は〈日本〉を取り巻くのか。
〈日本〉の中心軸の一つである竹生島では、龍あるいは大鯰が島を取り巻いていたという
『渓嵐拾葉集』の記事について前に述べた。

伊勢神宮の正殿床下にあって最も神聖視された
「心の御柱」は「国中の柱」「国軸」つまり〈日本〉の中心軸の一つであり、同時に独鉾であった。

心の御柱については、山本ひろ子の長大な仕事があるのでそれに譲るが(山本、1988〜92年)、
心の御柱には蛇がまとわりついていたという記述があることに注目しておきたい。

山本が考察を加えている『鼻帰書』の記述は次のようになる。

一 伊勢神宮酒殿という殿舎には天の逆鉾が納められている。

ニ 酒殿は弁財天の棲みかといわれている。

三 天の逆鉾は心の御柱のことである。
それゆえ、柱の下の白蛇を弁財天というのであろうか。

すなわち心の御柱には蛇が棲みついていると考えられていた。
それが弁財天と同じものだということについて、『鼻帰書』は、

弁財天は龍樹菩薩でもあるといわれることがある。
弁財天の供養次第を記した歓請の文に、
必ず龍樹の言葉を載せるのは、
その一体であることを示しているのである。

また、心の御柱も龍樹菩薩であるといわれることがある。


柱は樹であり、その白蛇は龍であるというので、取り合わせて龍樹というのだと真言の秘伝にいわれている。

‥弁財天とはわれわれの三毒の心(貪欲、瞋恚(しんに)、愚痴)を指す言葉である。

それゆえ衆生三毒の心が、ときにはこの神体つまり蛇身と顕れて、心の御柱に住んでいるのである。

と説明をしている。

文献によれば心の御柱は、立てたとき地面から上が二尺五寸、下もニ尺五寸の短いものにすぎないのだが、しかし、中世的思考にとっては、それが
〈国土〉の中心軸であることに何の疑問もなかった。

独特の作法によって山から伐り出されて装飾がなされ、神秘の作法によって立てられたからである。

その心の御柱龍神(八大龍王)が守護していた。


『大和葛城宝山記』によれば、心の御柱は独銛の〈かたち〉をしており、その独銛は倶利伽羅龍王となり、不動明王の姿になり、さらには八大龍王と化したとされている。

再び『鼻帰書』に戻ると、

今の心の御柱もまた、閻浮堤の衆生の心法を表しているがゆえに、須弥山ともいわれるのである。

その白蛇の棲む須弥山をば、難蛇龍王、抜難蛇龍王が取り巻いていると、倶舎論は解釈している。
そこで、我ら衆生も須弥山というのである。

と述べられている。

中世のメタファー的思考が、大神宮の心の御柱をも、龍が取り巻いて守護しているとイメージしていたとすれば、鹿島の動石にも龍が関わっていたと推測しても無理はない。

また、金沢文庫本〈日本図〉と大日本国地震之図で大龍が〈日本〉の〈国土〉を囲繞しているのも、第一義的には〈国土〉の守護を意味していたと考えられるであろう。

このように、龍が取り巻くあるいは囲繞している姿は、
中世〈日本〉の〈国土〉守護のシンボリズムであったことがわかってくる。

〈国土〉を取り巻き、尾を噛んで円環をなしている龍の姿は、まさに中世〈日本〉のウロボロスというべきであろう。

黒田日出男著 「龍の棲む日本」より

 

心御柱の儀式は、間違いなく井上氏がいうようにただの地鎮祭であり、しかし、地鎮祭そのものの起源を問うならば、取りも直さず、あの方座浦・志島の浅間さんの幣と同じく要石の儀式を行っていると思われるのである。」

 

「アマテラスの住まう正殿というのは、大和からきた新しい文化・信仰的勢力であり、その正殿が心御柱の上にありさえすれば、それで目的は達成されているのである。」

https://tokidokizm.amebaownd.com/posts/443049/

 

伊勢には、柱によって地震(龍)を鎮める浅間信仰があり、後から来た神道が覆いかぶさって今の形になっている?