イスラエルのハシディームは何故ウクライナ巡礼に行くのか

ディアスポラの聖地 ウクライナで復活したユダヤ人巡礼から見えてくるもの

大阪経済法科大学・赤尾光春氏の論文です。

写真はWikiより

 

はじめに 

ペレストロイカからソ連邦の崩壊へと至る過程において、世界のユダヤ人社会のトポグラフィーは劇的な変貌を遂げた。

最大の衝撃は、なんといっても旧ソ連諸国から発生した大量移民である。
1989 年から現在までに、150 万人以上のユダヤ系市民とその家族が旧ソ連諸国を後にし、そのうち約 100 万人がイスラエルを居住先に選んだ。

これによってイスラエルの総人口は 15%余りも増加し、いまやイスラエル国民の 5 人から 6 人に 1 人がロシア 語を母語とすると言われる。

第二の衝撃は、旧ソ連国内におけるユダヤ文化復興の動きである。
第二次世界大戦後、ソ連邦ユダヤ人は、個人としては民族差別を被りながら、集団としては表立った文化活動を禁じられるというジレンマにあって、ソ連社会に「同化」するか、あるいは自らの文化的アイデンティティを密かに保持するかという選択肢しか残されていなかった。

ところが、 ペレストロイカとともに、事実上消滅して久しかったユダヤ人共同体が次々と復活し、教育、文化、福祉、宗教などの分野の活動が表立って展開できるようになった。

以上二つの動向についてはすでに豊富な研究蓄積があるが、これらと比べて決して劣らぬほどの歴史・文化的インパクトをもちながらも、本格的な研究がほとんどなされていない第三の動きが存在する。

それが、本稿で取り上げるハシディズム(ユダヤ教敬虔派)の聖者廟巡礼の復活に代表される国外から国内へと向かう動きである。

こうした聖者廟は、ウクライナポーランドベラルーシルーマニアなど、かつてハシディズムが繁栄を誇っていた東欧の諸地域に点在するが、
なかでも、ウクライナ中部の町ウマニ(ウマン)に眠 るラビ・ナフマンの墓はイスラエル国外最大のユダヤ教聖地に発展し、
ユダヤ暦新年の大巡礼祭(9 月ないし 10 月に当たる)の期間だけでも、イスラエルをはじめ 40 カ国以上から 毎年 1 万人以上もの巡礼者が訪れる(図1)。

人口 10 万人にも満たないウクライナの一地方都市が、にわかにユダヤ人の巡礼センターへと変貌した結果、
ソ連崩壊後におけるユダヤウクライナ関係の再編過程にも少なからず影響を与えた。

ことに地域社会へのインパクトは著しく、巡礼がもたらした経済効果によって、聖地周辺に居住するウクライナ人住民の生活は一変するとともに、住民と巡礼者との間の軋轢も絶えなくなった。

一方、ユダヤ人巡礼組織が地方行政の意向をしばしば無 視する形で聖地開発を押し進めた結果、巡礼は政治問題化し、ウクライナの行政機構による度重なる介入を招いた。

さらに、ウクライナのマイノリティ政策に目を光らせてきたアメリカやイスラエルの外交官や政治家が巡礼の動向に多大な関心を示したことで、ウマニのユダヤ人巡礼はウクライナの対外政策にも影を落とすようになった。
本稿では、このウマニへのユダヤ人巡礼をめぐって地域・国家・国際レベルで展開するさまざまな葛藤の分析を通して、ソ連崩壊後に形成されたユダヤウクライナ関係の再編 過程で生じた諸問題について考察したい。

 

1.ウマニ(ウマン)巡礼の歴史的背景

ラビ・ナフマンは 1772 年、ハシディズムの開祖イスラエル・バール・シェム・トーヴの曾孫として、ウクライナの小村メジボジに生まれた。

1798 年に念願のイスラエル巡礼を果たしたラビ・ナフマンは、帰郷して間もない 1802 年、南ブク川の辺にあるブラツラフにお いて、ブレスラフ派と呼ばれるハシディズムの一流派を創始した。

早くから同時代の最高 の精神的指導者としての自覚を高めていったナフマンは、ユダヤ民族の贖い主としての使命感に取り憑かれ、その言動はやがてメシア主義的な性格を色濃く帯びるようになった。 

だが、志半ば、30 代の若さで結核に冒された彼は迫り来る死を意識し始め、晩年の活動を専ら自らの教えの永続性のために捧げた。

そこでラビ・ナフマンは意識的に二つのことを行った。

第一に彼は、「一切修復」(Tikun haklali)という特別な祈祷を考案し、ユダヤ暦新年に自分の墓に来てこれを唱えれば、どんな悪人でも地獄から引き上げる、という絶対的な救済の約束を弟子たちに遺した。

第二に彼は、ウマニという町を自らの死に場所に選定し、1810 年、弟子たちとともにウマニへ移住し、半年後にその地で生涯を閉じた。

ナフマンがあえてこの町を死に場所として選んだ 理由は、ウクライナにおけるユダヤ人の歴史的運命と深い関係があった。
ウマニは、1768 年にコサックとウクライナ農民による反ポーランド「蜂起」(Koliyivshcyna)が起きた際に、 その主戦場となった町として知られ、
ウマニ城に立てこもったポーランド人とユダヤ人 2 万人余りが血祭りに上げられたと言われる。

すなわち、ナフマンは、この蜂起の犠牲者が眠るウマニのユダヤ人墓地に自ら葬られることで、救われずに地上を彷徨う殉教者たちの魂を供養しようとしたのである。

ラビ・ナフマンの死の翌年、師の遺言に従った弟子たちがウマニに集い、ここに巡礼の伝統が始まった。
ブレスラフ派の教えは 19 世紀を通じてポーランドパレスチナにも広がり、新たな信徒たちはみな国外からウマニを目指すようになった。

だが、20 世紀初頭の度重なる動乱とともに、ブレスラフ派の基盤も国外に移り、
さらにウクライナソ連邦編入されると、巡礼の存続自体が著しく困難になった。

とはいえ、ソ連時代に入っても、身の危険を冒して国境を越える者が後を絶たなかったばかりか、国内でも、過酷なユダヤ教弾圧にもかかわらず少数のハシディームがかろうじて伝統を存続させた。

30 年代末には、 ウマニのシナゴーグが閉鎖されたほか、ハシディーム 27 名が逮捕・流刑されるなど、ウクライナのブレスラフ派は壊滅的な打撃を被ったが、それでも個人のアパートで新年の祈祷 を絶やさなかったと伝えられている。

ユダヤ人墓地は独ソ戦のさなかに爆撃で破壊し尽くされ、ナフマン廟の位置さえも一旦は見失われかけた。
さらに戦後には、墓地の上に住宅地を建てる決定が下され、墓地の痕跡すらも人々の記憶から抹消されようとしていた。

しかしながら、戦争を生き延びたハシ ディームの一人が荒地となった墓地から記憶を頼りにナフマン廟の位置を確認し、そこに セメントで印を残したおかげで、
ソ連国内で密かにユダヤ教の伝統を守っていた一握りの ハシディームが、戦後も密かに巡礼を行なうことが可能になった。

一方、ナフマンの墓へ の巡礼は、「雪解け」の時代にアメリカとソ連との外交的協議の対象ともなり、1964 年には、 アメリカ国籍の 11 人のハシディームに巡礼の特別許可が降りた。

だが、これは一度きりの例外的な措置となり、その後は、旅行者を装ったハシディームが非合法的な巡礼を散発的 に成功させるに留まった。

したがって、ウマニを訪れて師の墓前でひれ伏すことは、ブレスラフ・ハシディームの圧倒的多数にとっては夢のまた夢であった。

 

2.巡礼の復活とその社会・政治的影響

巡礼の受け入れ態勢

ところが、巡礼を取り巻く状況はペレストロイカとともに一変する。
1985 年にアメリカ国籍の一行53人に巡礼の許可が降りたのである。
しかし当時は、イスラエルソ連邦には国交がなかったため、ヴィザはアメリカ国籍者にしか降りなかった。

そこへ、あるイスラエル人起業家が「義人たちの道」(Derekh Tzaddikim)と呼ばれる旅行代理店を立ち上げ、イスラエル共産党とのコネを通してイスラエル国籍者に対するヴィザを特別に入手することに成功した。

その結果、1986 年にはイスラエル国籍者もウマン巡礼を実現させた。

初期の巡礼では、ソ連の官製旅行会社「インツーリスト」が巡礼の一切を取り仕切り、巡礼者は国賓並みの扱いを受けたが、それはとりもなおさず、巡礼がソ連当局の統制下にあ ったことを意味する。

一方、「義人たちの旅」がソ連邦への旅行手配業務を一手に独占してきたために、巡礼にかかる費用は 1200 ドルから 1500 ドルと相当に高く、また、ヴィザの 発行数に制限があったことなどから、この時点での巡礼は一部のエリートや富裕層を対象 としたものに留まった。

1990 年代に入り、一連の自由化政策が中央から地方に浸透し始めると、巡礼の受け入れ 態勢も様変わりする。
巡礼が地域経済にもたらす高い経済効果に目をつけたウクライナ共 和国議会が旅行規制を大幅に緩和する方向性を模索し始めると、
国内外の二つの組織が巡 礼に関わる問題全般に直接介入するようになった。

それが、「ブレスラフ・ハシディーム世 界会議」とウマニ市議会である。

ブレスラフ・ハシディーム世界会議(以下、「世界会議」と記す)は、開祖ラビ・ナフマンの時代から連綿と続く伝統を継承してきたハシディームを中心に、1981 年にニューヨー クで設立された宗教法人である。

世界会議は、ウマン巡礼の復活とともに専ら巡礼をめぐ る状況の改善に尽力してきたが、
1990 年の巡礼を前に、ウクライナ共和国議会と個別に接 触を図り、独自のルートで巡礼を組織する許可を取り付けた。

その結果、1990 年の巡礼では、航空運賃、宿泊費、食費込みで 650 ドルと巡礼全体にかかる全費用を前年の二倍以下に抑えることに成功し、巡礼の大衆化に先鞭をつけることになった。

一方のウマニ市議会は、それまで宿泊場所の確保や必要最低限の公共秩序の維持といった 消極的な役割に甘んじていたが、
1990 年からは巡礼事業に直接乗り出した。

1990 年 6 月 14 日、ウマニ市議会執行委員会は、「ツーリズム問題における国際協力の新形式の創設と実現」 と「巡礼の実施に向けた調整、宿泊、秩序の確保並びに市が必要とする外貨獲得」を目的 として、
地元有力企業との協力による合併企業「ウマニ協会」を設立した。

ウマニ協会は、 世界会議と直接契約を結んで、宿泊施設の確保や巡礼施設の整備を一手に引き受け、約 1000 人の巡礼者が訪問した 1990 年には約 11 万ドル、1800 人が参加した 91 年には 15 万ドル(うち約 3 万 2 千ドルは市議会の収入)の収入を得た。

こうして、巡礼が逼迫した市の財政事情 の改善に大きく寄与することが明らかになった。

 

 

巡礼をめぐる力関係の変化 

しかし、ソ連邦の崩壊とともに巡礼をめぐる力関係は大きく変化する。
1991 年 12 月 21 日、ソ連が崩壊した。

旧ソ連からのユダヤ人移民の促進に多大な関心を
寄せていたイスラエルは、そのわずか 4 日後の 25 日、ウクライナの独立を承認し、
翌 26 日、ウクライナは他の CIS 諸国に先駆けてイスラエルと外交関係を結んだ。

新生ウクライナの初代大統領となったレオニード・クラフチュークは、1992 年にアメリカ合衆国を、93 年にはイスラエルをそれぞれ表敬し、
ソ連時代に見られた反ユダヤ的政策を放棄するとと もに、国内のマイノリティの権利を擁護するといった民主路線を大々的にアピールした。

こうした態度は、独立後間もないウクライナにとって、国内外のユダヤ人社会との関係改 善が、対外的イメージを刷新する上で最重要課題の一つであったことをよく示している。

西側諸国に接近を図りたいウクライナ政府にとって足かせとなっていたのは、なによりもアメリカ政府が CIS 諸国に課していたジャクソン・ヴァーニク法の存在であった。

同法は、ブレジネフ時代にユダヤ人の出国に加えられた制限に対する対抗策として、
ユダヤ・ ロビーの強い後押しを受けて成立した貿易制限法であるが、
ソ連崩壊後も、CIS 諸国内のマ イノリティ政策、とりわけユダヤ人社会の置かれた状況の改善を条件に、アメリカ政府は 破棄を留保していた。

たとえば、クラフチューク大統領は 1992 年の訪米時に、同法の破棄 に向けた外交的努力の一環として、20 年代から 30 年代にソ連当局に没収された旧宗教共同 体の遺産をかつての持ち主に返還することを約束している。

こうした時代の変化を敏感に察知した世界会議は、ナフマン廟周辺の土地返還をウクライナ政府に要請するとともに、
巡礼者の受け入れと聖地開発を有利に進めるべく、キエフ の新興企業と独自に契約を結び、外交ルートを通じてこの同契約の履行を側面支援するよ うウクライナ政府に働きかけた。

西側との間で面倒を抱えたくなかったウクライナ政府はこの契約を事実上尊重したが、
これによって大きな打撃を受けたのは、ウマニ市議会と地 元企業であった。
2800 人以上の巡礼者が訪問した 1992 年、ウマニ協会が得た収入は、前年の 10 分の1にも満たないわずか 11000 ドルとなり、有名無実化した協会は翌年、解体を余 儀なくされた。

聖地の位置づけと開発形態 巡礼の受け入れ事業に関して二次的な地位に甘んじることになったウマニ市議会は、ただちに事態の打開策を模索した。

1992 年 12 月、ウマニ市長ユーリー・ボドロフは、クラフチューク大統領に宛てて書簡を送り、
ウクライナ政府が、「他のいかなる団体も(市議会の――引 用者注)同意なしにハシディームの受け入れ問題の決定に関与できぬよう、
また、巡礼者の節度のある受け入れに向けたウマニ市議会の意向を法的に裏付けるよう」要請した。

ウマニ市議会は、政府がナフマンの埋葬地周辺に居住する住民を立ち退かせた上で、そこを国有地 と宣言すれば、市議会が巡礼に関連する問題全般を特権的に扱えると考えたのである。

1994 年 6 月 7 日、市議会からの再三にわたる要請を受けて、「チェルカシ県ウマニ市におけ る歴史文化センターの創設に関する」ウクライナ大統領令が発布された。

ウマニ市議会執行委員会による度重なる提案を考慮し、ウクライナ大統領は以下の決定を下した。 

・ ウマニ市における義人にしてブレスラフ・ハシディームの精神的導師ラビ・ナフマンの埋葬地に、
「歴史文化センター」を創設する。
・ 歴史文化的重要性を有する同埋葬地の使用権をセンターに委託するとともに、ウマニ市議会に対
し、同埋葬地に居住する住民の移転問題に関して円滑な解決を勧告する。
ウクライナ政府大臣官房は、同センター創設に当たり、ウマニ市議会を支援すること。

ソ連時代から巡礼者の受け入れ問題を担当してきたウマニ市長顧問のスヴェトラーナ・リピ ンスカヤ氏は、大統領令の意義について次のように語る。
大統領令によって、この土地に手を加えたり、それを私有したり売買したりすることが禁じられま した。つまり、国家によって聖地として定義づけがなされ、同地は特別な地位を得たのです。宗教的 信条が尊重され、巡礼地として保存されることになりました。」

しかし実際には、大統領令は国有化なき国有化宣言に等しく、巡礼の受け入れをめぐる諸 問題の根本的な解決とはほど遠かった。

というのも、政府は財政難ゆえに住民の立ち退き 措置を採れず、ナフマンの墓の周囲には3世帯が居住する民家二棟のほか、旧ユダヤ人墓地があった土地の上には、8階建ての高層アパート一棟半がそびえ立ったまま、100 世帯以上が普段どおりに暮らし続けることになったからである。

さらに、大統領令には、聖地の返還ないし独占的利用の権利を主張していた世界会議の地位が明記されていなかったため、
世界会議の反発を招き、事態をさらに悪化させた。
世界会議は、ウクライナの私企業と再び契約を結び、ヨーロッパ最大とも言われる 8000 人を収容できる大シナゴーグの建設をはじめとする聖地開発に乗り出した。

1995 年、世界会議が行政による度重なる注意勧告を無視する形で巡礼を断行しようとしたことなどから、最初の危機が訪れる。

市議会は政府に働きかけ、巡礼に関係する争点を解決するため介入するよう要請した。
これを受けて関係各省庁は巡礼をめぐる諸状況を検討した。
内務省は、 宿泊施設に適切な衛生状態でないことから伝染病の発生、十分な災害防止基準に満たして いないシナゴーグでの巡礼者収容による事故の危険性などを考慮し、巡礼者を 3000 人以下に制限するように勧告した。

一方、民族・移民・宗教省は、「巡礼者数を制限することは 国際法上前例のない措置であり、入国制限はウクライナに対する否定的な感情を喚起し、 我が国の外面的イメージを損なう恐れがある」と結論づけた。

ウクライナ政府は最終的に 後者の見解を重く見て、巡礼の実施に対して表立った介入は行なわなかった。

かくして、ウクライナ側は妥協を余儀なくされ、世界会議を聖地開発のパートナーに積 極的に取り込むことに方針転換した。

1996 年 5 月、市議会は、世界会議を「ウクライナに おけるハシディズム運動の唯一の精神的かつ財政的指導者」と認めた上で「ラビ・ナフマ ン記念国際福祉基金」を立ち上げた。

市議会は、「センター」の敷地に関して 50 年間の賃 貸契約を世界会議と結び、ウクライナ側は世界会議による聖地返還の要請をとりあえずは 封じ込めた。

一方の世界会議はこの年、13 万ドルで聖地周辺の民家二棟を購入し、本格的な聖地開発の地歩を固めた。

こうして、地方行政の監督の下、国外の宗教団体が国有地化 された土地の開発プロジェクトの中心的役割を担うという異例の原則が確立された。

しかしながら、あくまでも独自に開発を進めたい世界会議側と巡礼による収入を少しでも市に 還元したい行政側の思惑とのズレは容易には縮まらず、巡礼期間直前まで両者の間でぎりぎりの交渉が行われるのが通例となって現在に至る。

巡礼者の宿泊問題 現在まで尾を引いているもう一つの懸案事項は、巡礼者の宿泊問題である。
巡礼者ははじめ、市議会から指定された大学の寮や閉鎖中の工場などに寝泊まりしていたが、
衛生面などで宿泊環境が劣悪である上に高額を要求されることから、
90 年代のはじめ頃より、個々 の巡礼者が聖地周辺の住民と個別に交渉して民間のアパートに宿泊するようになった。

これによって巡礼地周辺の住民は多大な経済的恩恵を受けることになったが、観光資源としての巡礼を活用して地方経済の活性化を目指す行政側には大きな悩みの種となった。 

行政はこうした違法な宿泊形態を改善すべく、巡礼者を宿泊させた住民から税の徴収を試 みたものの、住民がしばしば虚偽の申告をするために十分な税収を得ることができなかった。

ウクライナ政府は打開策として、官選の旅行代理店を通して住民と巡礼者の宿泊契約 の仲介をすることで事態の改善に乗り出した。

ところが、ソ連時代から巡礼者の便宜を図 ってきた国外のユダヤ人専門の旅行会社の抵抗に遭い、この試みも惨憺たる失敗に終わった。

こうした問題が積もり積もった挙げ句、1998 年には外交問題にも発展しかねない深刻な危機が訪れる。

この年、ウクライナ政府は、ユダヤ暦新年の直前になって、巡礼者の受け 入れに対して行政側が提供する公共サービス料の未払い問題や、
国外の旅行代理店の独占 がウクライナ国益を損なっているとの理由で、巡礼者に対するヴィザ発給を停止し、
イスラエルウクライナ間のチャーター便もキャンセルするという手段に打って出た。

これに対し、ハシディームは、宗教政党を通したイスラエル政府経由のロビー活動を展開し、 
さらに、テルアビブのウクライナ大使館の前で大規模なデモを行うことを通告した。

緊迫した空気は、当時の駐イスラエル大使からウクライナ外務副大臣に宛てた書簡からよく伝 わってくる。

ハシディームの巡礼はますます深刻なものとなっています。
・・・イスラエル指導部は、状況が「デ リケート」であることから、
・・・ウクライナに対して行われる可能性のある政治的示威行動を中立 化する心構えがあります。
・・・ネタニヤフ首相は、連立政府内の影響力あるメンバーであるシャス党の強い圧力の下にあり、同党はハシディームの利害を擁護しています。
・・・ネタニヤフ内閣の政治的立場は不安定なため、・・・同首相は、ウクライナへの公式訪問の直前にイスラエル・ウクライ ナ関係に新境地を開きたいと望んでいるにもかかわらず、ハシディズム運動の利害を擁護せざるをえなくなる可能性があります。
しかも、
・・・予定されているハシディームの「巡礼便」のキャンセルによる損失額は、350 万ド ルから 400 万ドルに上ると言われております。
このように、本件の政治的性格には、「ビジネス上の」 付随的要因が明白に存在します。
ブレスラフ・ハシディーム宗教指導者の公式発表によれば、
・・・イスラエルの国際マスメディア を交えた大規模な(2500 人から 3000 人)示威行動がウクライナ大使館周辺で予定されており、
示威行動のテーマは「ウクライナ政府はハシディームの聖地への巡礼に反対している」というもののようです。

ハシディーム指導者による活動とイスラエル政府に対する政治的圧力は、予定されているウクライ ナ代表団によるイスラエル訪問の実現を疑わしくさせるとともに、
・・・訪問の際に見込まれている重要書類への調印の機会をも脅かしています。
私は、ウクライナ外交政策に対する否定的結果を最 小限に食い止めるべく、また、衝突が国際レベルにまで拡大しつつある事実を考慮して、すでに準備 が完了しているハシディーム巡礼者 2000 人以上に対するヴィザを発行することに致しました。

かくして、ウクライナ政府は、国際的イメージの低下に対する懸念とイスラエルウクライナ二国間関係を優先し、
またしてもハシディームによる圧力行使に屈せざるをえなかったのである。
住民と巡礼者の相互関係聖地周辺の住民は、巡礼者に宿泊所を提供することで多大な経済的恩恵を被っている。
そのため、巡礼者の訪問を概ね歓迎していることはたしかである。

しかし一方で、巡礼経済に極度に依存する状態が生み出されるとともに、巡礼者との軋轢も絶えない。
こうした軋轢は、一部の巡礼者に見受けられる住民に対する配慮の欠如や侮蔑的な態度に起 因しているが、そもそも巡礼地が住民の生活圏と重なり合っていることや、巡礼地の開 発によって地域住民が自分たちの土地から疎外されてしまっていることが根本的な原因であろう。

現在、巡礼地周辺では、塀で囲まれたナフマン廟のほか、ヨーロッパ最大と 言われる大シナゴーグ「クロイズ」(Kloyz)、イスラエル資本のホテル「シオンの門」 (Shaíarei Zion)、巡礼者用の高層住宅「ブレスラフ=ウマン」(Kiriyat breslov-uman)などの 巨大な巡礼使節の開発が急ピッチで進んでいるが、巡礼者側にも行政側にも、住民に対 する配慮は一切見られない。

 

 

そのうえ、巡礼期間中になると、巡礼者に対する宗教的配慮が最優先され、住民はさ まざまな制約を課せられる。

たとえば、巡礼地付近には自然発生的に出来上がった縁日 が立つのが数年来の伝統になっているが、2003 年には、地元女性が品物を販売すること を禁止する措置が、地元行政との連携で行われた。
自分たちの生活圏で行動を規制されることに住民の多くは反感を覚え、地元紙もこれを大きく取り上げた。

「『ウクライナ国と民族に誇りを持つみなさん、屈辱感を感じたくなければ、ハシディームによる大 巡礼期間中にはプーシキナ通りに近づくなかれ!』いっそこんな標識を、ウマニ市への各入り口に掲 示する必要があろう。

・・・各露店には、「商売の条件は承諾されている」、「商業行為は男性によって のみ行われる」といったヘブライ語とロシア語で書かれた証明書が配布されているという。
一体そんなことが容認されてよいものか。
我々はまもなく、どこに住むべきで、どこに行くべきで、何を話す べきなのか、指図されることになるだろう。
・・・みなさん、ようこそゲットーへ!
あなたがたをここへ招待しているのは、我が国の法と秩序の番人です。しかしどうしたものか、番人殿は十分な権限 をもたないご様子。我が祖国において市民のみなさんを賤民の地位に貶めようとなさるのです。」

とはいえ、住民は巡礼者や行政の言いなりになっているばかりではない。
すでに述べたように、収入税の計算をごまかすなどして行政を出し抜いているばかりか、巡礼によって得た資金によって住宅をリフォームするなどして付加価値をつけ、宿泊料を毎年つり上げ ている。
また、巡礼者による住宅購買の動きも進み、巡礼地周辺のアパート 400 戸以上が 巡礼者らによってすでに購入されたと言われているが、巡礼祭期間中に稼げるだけ稼いだ末、アパートを売り払い、別の地区へと移住することを考えている者も少なくない。その結果、宿泊料や住宅の価格は毎年のように高騰している。
たとえば、40 代ぐらいのある巡礼者は苦々しく次のように語った。
「かつては、一ドルでほとんどこの地区一帯を買うことができた。あの頃はどこへ行っちまったん だ?かつては一ドルでも掴ませれば、一週間はつきっきりで世話を焼いてくれてたもんだ。それが今じゃどうだ。連中も学んだ。俺たちは毎年同じアパートに泊まるんだが、部屋の中身は大違い。今は戸棚もあれば、ボイラーもあるし、水もある。なんでも完備されてる。
そんなもの昔はなかったのに。 連中もまったく洗練されたもんだ。
・・・今年は部屋代に 800 ドルも払ったんだよ。昔は 100 ドルし か払わなかった。それがどうだ。200、300、400、で挙句に今じゃ 800 だ。
・・・今年は学んだよ、連中。みんなきっかり 800 ドルって言ってくる。例外なくみんな。誰も 1 シェケルたりとも譲ろうとしないんだ。」

こうして、住民だけでなく、巡礼者も逆に住民にますます依存せざるをえない状況が生まれている。
こうしてみると、ユダヤ人側が経済的にも政治的にも優位に立っている状況にあって、唯一効果的に対抗できているのは、なによりもしたたかに振舞う住民たちである と考えることもできる。

巡礼に反対する示威行為

政府による巡礼に対する介入がこととごく失敗し、聖地の住民をの一部を別とすれば地方経済に目に見える形で還元されることがない状態が続く中、
1990 年代末には、これまで に燻っていたハシディームと政府の対応に対する批判の声が相次いで噴出した。

1997 年、約 100 人の活動家がウマニで街頭デモを行い、ハシディームが町を自分たちの住居に変えていることやウクライナ政府が巡礼に便宜を図っていること、
さらには巡礼期間中にウクライナ警察がハシディームの警備に当たっていることなどに抗議して、ハシディームらを入国させないように訴えた。、

また、1999 年には、ウクライナ最高会議議員の一人が、ウマニでのシナゴーグ建設の非合法性を指摘し、巡礼がウクライナの安全保障を脅かしているとするなど、政治レベルでも巡礼をめぐる状況に対する疑義と批判が聞かれた。

さらに、1999 年には、以下のような象徴的な「事件」が起きている。
UNA-UNSO(ウクライナ民族会議-ウクライナ人民自己防衛)という愛国者たちの団体が、ユダヤ暦新年の 到来時期を見計らい、「コリフシーナ、1768 年の民族解放蜂起」と題する全国学術大会と同 蜂起の記念碑の建設予定地までの行進をウマンで開催する計画を立てた。

無用な混乱を危惧した市議会は計画の中止を求めたが同団体は応じず、問題は裁判に持ち込まれた。
ウマニ地方裁判所の判決は、この時期にウマンで大会を開くことと、団員の市内立ち入りを禁じた。
さらに内務省は、大会予定日における同団体のウマニ入りを未然に防止する措置を 全国規模で展開し、巡礼期間中の大会開催は直前になって阻止された。

しかしながら、一ヵ月後に大会は開催され、記念碑の建設予定地までの行進も許可された。
ここから窺えるのは、反ユダヤ的イメージが助長されることは全力で食い止める一方で、民族主義的な感情の発露自体は目立たない形であれば許可するなど、国内外に対する 政治的配慮のバランスをとろうとしているウクライナ政府の姿勢である。

なお、現在、記念碑の建設予定地には、資金難等の理由から、礎石のみが建ったままの状態が続いている が、市議会の外務担当官は、この種の計画は可能だとしても実行すべきではないとの見解を支持している。

 

 

3.ウマニ巡礼をめぐる諸問題と展望

ユダヤウクライナ関係を中心に巡礼を取り巻く葛藤の諸相を概観してきたが、以下ではこうした葛藤を、ローカルとグローバル、国民国家ディアスポラ、そして巡礼と観光 という三つの基本的な対立構造からさらに分析してみたい。

ローカルとグローバル 独立以後のウクライナにとって、ウマニのユダヤ人巡礼は、地方経済の活性化や国家財政の伸張といった対内的国益と「民主国家」としてのイメージ作りと西欧諸国への仲間入りといった対外的国益とが葛藤する舞台であった。

しかし、国外からの巡礼の統制がウクライナ国益を守る上で不可欠であるとの認識は、1995 年および 1998 年の危機の性質の違いからもわかるとおり、
はじめからウクライナ政府に共有されていたとは言いがたく、むしろ地方から中央へと徐々に浸透していったと言える。

ウクライナ政府が当初より巡礼の 国家的重要性をいち早く認識し、然るべき措置をとっていれば、1998 年の巡礼の際に起きた危機は回避されていたか、少なくとももっと穏当な形をとっていただろう。

一方、ウクライナ政府が国際社会における対外イメージを優先し、ウマン巡礼の統制を めぐって妥協に甘んじてきたことは、長期的視点に立てば見返りも大きいものであったかもしれない。

というのも、近年、国内のマイノリティ政策におけるウクライナ政府の努力 は国外の人権団体などからも一定の評価を受けており、
とりわけ「オレンジ革命」後には、 「民主国家」ウクライナのイメージが欧米でもある程度定着しつつあるからだ。

実際、ウクライナ側のこうした努力の甲斐もあり、2006 年の 3 月には、ジャクソン・ヴァーニク法 の破棄がアメリカで可決されている。

 

国民国家ディアスポラ

1990 年代末に噴出した抗議の声に象徴されるように、少なくとも民族主義者らにとって、
ウマニは、ユダヤ人巡礼の復活を契機として、ポーランド人とユダヤ人に代表される「外敵」を駆逐した英雄都市としての象徴的な意味合いを急速に帯びるようになった。

こうした排外主義的イデオロギーが、対外的イメージを配慮しながら民族問題に対処するウクライナ政府や、巡礼が生活の糧となっている聖地周辺の住民の実際的関心とは根本的に相容れないことはたしかである。

ただし、巡礼者側が今後、地域住民や国家に著しく配慮に欠 けた振る舞いをとることになれば、民族主義者らによるこうした主張が、国家機構や国民 全体にも共有されないとも限らない。

ウクライナにおけるユダヤ人の存在は、ポーランド人の場合と同様、ウクライナ政府や民族主義者の観点からはつねに外在的な要素とみなされてきた。

しかし、とりわけ右岸ウクライナの都市をポーランド人が築き、ユダヤ人がその発展を担ってきたという歴史的事実に鑑みると、外在的と考えられているこうした要素はむしろ、ウクライナの歴史につねディアスポラの聖地に内在してきたものであった。

それゆえ、ユダヤ人住民が著しく減少した町で昔日の民族・ 宗教的伝統が際立った形で復活したことは、ウクライナという大地における民族・宗教・文化の多様性が再認識される契機となったはずである。

この点で、ウクライナ大統領令による「歴史・文化センター」の創出と、それに続く「国際基金」の設立は、相互理解に向けた基盤を確立した意味で重要な一歩であった。

しかしながら、それが誰にとっての、誰のための「歴史・文化」であるのかという重要な問いは、 いまだに提起されておらず、まともに議論されることはなかった。

したがって、ウクライ ナという国民国家ユダヤディアスポラとの歴史・文化的な対話は、巡礼制度の正常化 に向けた必要不可欠なプロセスとなろう。

近年、ユダヤ人巡礼者の側からもウクライナへ の歩み寄りの気配を見せている。たとえば、ディアスポラにおいてユダヤ人共同体はつね に居住国家の安寧と繁栄を日々の祈祷において唱えてきたが、
巡礼者組織は 2005 年の新年祭において、ウクライナの平安と繁栄の祈願を新年の祈祷に導入する決定を下している。

巡礼と観光世界会議は、ソ連末期より、巡礼地整備に関するあらゆる問題の決定権を確保しようと望んできたが、こうした願望は、彼らがウクライナ行政による注意や勧告をしばしば公然 と無視してきたこと見て取れた。

そこには、巡礼にかかる費用をできるだけ安く済ませる など、少しでも自分たちの都合のよい方向に事を進めたいという打算も多分に働いていた はずである。

だが、その根底に、自分たちの宗教的遺産を自分たち自身の手で管理したいという宗教的動機がつねにあった点はもちろん無視できない。

これに対して、ウクライナ の行政はそもそもの初めから、ユダヤ聖地巡礼を、国庫を潤沢にしうる観光資源として しか認識しておらず、そこから最大限の経済的利益を引き出すことしか念頭になかった。 

こうして見ると、ユダヤ人巡礼者の側とウクライナ側との認識のズレは、巡礼の復活の時点からつねに存在してきたと言える。

ナフマン廟があった旧ユダヤ人墓地は、事実上消滅して久しく、過去も現在も、その周囲は住民の生活圏であった。

この点で、1992 年の遺産返還法がこの土地に適用されなかったのは無理からぬことであった。
他方、すくなくともこのまま住民の生活圏である限り住民への配慮が行われて然るべきところだが、そうした現状とはほど遠い。

したがって、この土地に宗教的配慮のみを機械的に適用し、住民側の配慮は二の次になるとすれば、それは欧米流の人権意識のダブル・スタンダードということになろう。

こうした疎外状況をなくすには、「センター」に指定された土地にいまだに居住し続けている住民が納得の行く条件で立ち退き措置を講じることがもっとも好ましいと思われるが、住民個々人による住宅の売却プロセスが先行しているのが現状である。

観光人類学によれば、観光地の住民は、その土地の景観の美しさや伝統文化といった「真正性」(authenticity)を観光客に売りその見返りを得ることで、ホストとしての面目を保つ。

しかし、ウマニでは、巡礼者は、ユダヤの聖地に祈りにくるのであって、ウクライナの自然やウクライナの文化に触れにくるわけではない。
それどころか住民は、逆にユダヤの文化・伝統をいやというほど見せ付けられる傍観者の役割に終始させられる。

その結果ホスト・ゲスト関係も純粋に金銭的側面に限定されることになるが、こうした疎外関係が摩擦を生み出す構造的な原因となっていることは明らかであろう。

「巡礼は町に経済的恩恵をもたらしたけど、残念なのは、彼らが文化をもたらさないことね。」
巡礼地周辺に住むある女性はこう語った。

この言葉には、ユダヤ人が文化をもたらさないというよりは、 ウクライナ人が自らの文化をアピールできない、というホストのジレンマが読み取れる。

以上の現状を考えると、逆説的ながらも、巡礼の観光化がさらに進むことが、巡礼の受け入れをめぐる正常化につながることは十分考えられる。

この点については希望がないわけではない。
巡礼の復活から 20 年が経とうとする現在、巡礼者の社会層も多様化し、ウクライナの景観や住民の生活様式に関心をもち、
さらには地元住民との交流に積極的に乗り出すような、より開かれた関係も散見されるようになった。

また、毎年の宿泊行為を通して巡礼者が常連化することで、互いに対する尊重関係も確立されつつある。
こうした好ましい関係構築に向けた徴候は、ウマニ市長秘書官として、ハシディズム巡礼の受け入れ問題を長年担当してきたリピンスカヤ氏の発言に読みとれる。

「我々の今日の課題は、ハシディームを受け入れるだけでなく、異なる信仰をもった人々に対し、寛容で、温和な態度を取るように心がけることです。
たしかに、この祭の期間は、平穏ではありません。 いくつか事件もありましたが、どれも個々の人間のレベルで起こったことです。
『ハシディームは我々の人間だ。彼らはここを訪れる。ウマニとハシディームとは切っても切れない関係にある。』市民は大体こんな考えをもっているのです。」

ディアスポラユダヤ人共同体は、「国家の法は法なり」(Dina demalkhuta dina )というタルムードの原則に則って居住国家の法を遵守しつつ、
その現状がユダヤ人にとって過酷なものとなり、生命が脅かされる危険に直面したときに限って、ユダヤ人社会は伝統的に、 国家権力に対する「根回し」(shtadlanut)を通して、抑圧的な法の無効化や、自分たちに対するイメージの改善に努めてきた。

こうした外面的恭順と抑制された影響力の行使からなる 二重の戦術は、居住国家の住民や国家権力に社会的にも政治的にも支配されるディアスポラにおいて、ユダヤ人が生き残るための重要な手段となってきた。

しかしながら、ウマン巡礼をめぐってハシディームがウクライナ側に対して見せてきた対応には、むしろこれとは正反対の傾向を読み取ることができる。

すなわち、巡礼地にお ける規則や因習に適合しようとする努力はほとんど見られず、かえってホスト側を自らの交渉の仕方に適合させようとする強い志向性が見られるのである。

状況を是が非でも有利に運ぼうとするユダヤ人側のややもすると強引な態度は、彼らの圧倒的な経済力と国際的政治力だけでなく、ユダヤ人が支配者として君臨してきたイスラエルにおける長年の経験 を如実に反映していると言えるだろう。

一方、ウクライナ側は、自らの土地において、い わば「周縁的な」ホスト役として、「支配者然とした」ゲストの振る舞いに譲歩を繰り返してきたが、
それはなによりも、経済的利益や国際社会におけるウクライナの肯定的イメージの保持のためには、そのくらいの譲歩も釣り合ったからである。

こうした政治・経済的に不均衡なホスト・ゲスト関係は、本質的に不安定なものであるかもしれない。
しかし同時に、両者間の競合する利害関係や相互依存関係が、両者の関係を、全般的な安定に導い ていることもたしかである。

1997 年の「基金」設立に際して、米副大統領国家安全問題顧問はウクライナ側のカウン ターパートに親書を送り、次のように記している。

アメリカでは、この問題は極めて重要な問題としてその推移が見守られている。・・・ウマニは、 相互協力と相互理解の手本であり、そうあり続けている。」
このように、ウマニのユダヤ人巡礼をめぐる問題は、望ましいウクライナユダヤ関係の 指標となっているだけでなく、現代ウクライナにとっての良好な対外関係のための試金石だと言えるだろう。

https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/jp/open/2007/akao.pdf